平行宇宙論

ヒュー・エヴェレットの量子力学解釈(1957)

量子的系の状態をあらわす波動関数は、一般に相異なる固有値に属する固有関数の重ね合わせになっており、観測によって得られる物理量としてどの固有値(固有関数)が選び出されるかは確率的にしか前もって知ることはできない。しかし実験結果として得られる物理量は「決まった量」でなくてはならない。したがって観測の結果、物理量が取り得る値のいずれかが決定したとすれば、その瞬間に波動関数は(いわば一つの「状態」を示す固有関数へと)「収縮」する。これを「波束の収縮」という。よって量子的系の状態は、観測がなされない時にはシュレディンガー方程式に従って時間とともに連続的に変化し、観測がなされた瞬間に、飛躍的・非連続的に変化するということになる。

このことをやや図式的に示したものが、有名な「シュレディンガーの猫」である。箱の中に閉じ込められた猫の生死は、センサーにつながる殺猫装置(青酸ガスなどを注入する)に決定される。そのセンサーの前には、微量の放射性物質があり、それからアルファ線が飛び出せば、センサーがそれを感知し、猫は殺されるのである。放射性物質からアルファ線が飛び出す(これは量子的系の状態である)、その確率は1時間で1/2、と確率的にしか知ることができない。実験を始めて1時間後、猫が生きている確率は1/2である。が、箱を開けて見れば、猫は生きているか死んでいるかのいずれかである。観測(箱を開けて見る)した瞬間に、波動関数は(いわば一つの「状態」を示す固有関数へと)「収縮」する。
この思考実験は、また次のことを示す。つまり量子系の〈微視的世界〉と観測系の〈巨視的世界〉の乖離、飛躍である。量子力学における、いわゆる「観測のパラドックス」はここに端を発する。観測したとたんに事態が一変するというこの「波束の収縮」を、「意識が物理的世界に作用を及ぼす」といった認識論的形而上学(?)を用いずに解決する方法はないのだろうか?

ヒュー・エヴェレットは、シュレディンガー方程式から導き出される、状態ベクトルが示す「波動の重ね合わせ」を(確率的なものとみなさず)実在とし、さらには状態ベクトルのステージである(通常の量子力学においては単に数学的記述の方法にすぎない)無限次元ヒルベルト空間をも実在のものとする。

しかし、波動場が物理学的実在であるにしても。何故それを完全に記述するはずの状態ベクトルが、確率的予言しか与え得ないのか?

結局、宇宙を「ひとつの宇宙とその確率的ゆらぎ」として見るのではなく、確率的な「それぞれの場合」をすべて実在化して、それぞれ「宇宙」とすることで、ヒュー・エヴェレットは「多元宇宙」を作り上げる。

量子力学を克服すべきものとした人々は、1.「観測から独立の実在」というテーゼを土台に反論する(アインシュタイン)か、あるいは2.現段階の我々の理論では(まだ不完全なので)現れてこないような「隠れた変数」があるとして、量子力学に決定論を取り戻そうとするか、そのいずれかであった。

エヴェレットは、「隠れた変数」ならぬ「隠れた実在(宇宙)」を導入することで、量子力学を「超越」する。つまり、「多元宇宙」全体については、宇宙は決定論的であるとする。我々には知り得ない「宇宙」があることから(つまり我々の無知故に)、我々の理論は確率的解釈(非決定論)を採用せざるを得ないのである。これはラプラス的な(つまり古典的な)「確率観」であり、さらにそこでは我々の宇宙(あるいは3次元だか4次元だかの我々の「次元」)は、無限次元空間である「多元宇宙」の部分空間にすぎず、もはや物理学的実在とあるよりむしろ、我々の主観の能力限界にすぎなくなる。

「エヴェレットの量子論解釈(「相対状態解釈」と呼ばれる)は、量子論の認識論的形而上学的な観点を捨て、数学的な記述を額面通り(実在するものとして)受け入れようとするものです」(P.C.W.デイヴィズ『宇宙の量子論』p204、但しカッコ内引用者)。

エヴェレットのこの「相対状態解釈」は、実はフォン・ノイマンの量子力学における「物心平行論」を前提としている。これはボーアらの「記述における二元論」に対し、「実在における一元論」を主張するもので、観測過程に関与するすべてのものが(当然、観測装置、観測者も含まれる)、量子力学の原理に従うはずだという要請に他ならない。エヴェレットもこれに従い、「観測者」も量子力学の原理に従う一物理系としての「観測装置」に置き換え可能であるとする。

量子的記述可能な「観測装置」(観測者を含む)を前提とすることは、ノイマンがそうしたように、その背後に他の観測者をまるごと量子力学の対象としてしまうような「抽象的自我」を想定することである。すなわち、エヴェレットのいう「超決定論」とは、無限次元空間である「多元宇宙」をも見据える特権的観測者の位置に立つ「抽象的自我」の独在論のことである。

inserted by FC2 system