『おそろしくて言えない』

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 桑田乃梨子『おそろしくて言えない』(白泉社)
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 「桑田乃梨子の作品作りは、厭味な人間、純真な人間、運命に抗う人間という、この三者から出来ている」という指摘がありました。では、この三項関係が「完璧な均衡をなしている」という『おそろしくて言えない』について、検討してみましょう。

 まず第一項、「厭味な人間」。
 これは、性格の極めて悪い霊能力者、御堂くんを差していると思われます。ここで私は、この規定を「無垢なる悪意」と変更したいと思います。なぜなら、彼の悪意、つまり主人公(後述するが「運命に抗う人間」)に向かった悪意は、自己目的的である。彼の悪意の発現は、「悪意の充足」以外の何の利益も彼にもたらさないからであります。
 御堂くんが主人公を陥れようとするのは、ただ「陥れたい」がためであり、そのことによって何らかの利益を得ようと言うのでも、また他の欲望を満たす手段としてそうするのでもない。「悪意の充足」以外の欲望については、なんらそんな手段を介さずとも、実現する能力を彼は有しているのです。
 そしてその「悪意」とは、「敵意」と取り違えられ得るものではありません(しかし一般には、このふたつは都合よく取り違えられることが多いのも事実です)。

次に第二項、「純真な人間」は、「無垢なる善意」と書き換えられます。なぜなら「厭味な人間」もまた「純真」な(悪意を持った)人間であったからです。そしてまた「無垢なる善意」は無力です。まるで役に立ちません。それどころか「役立たずであること」、そして「役立たずの善意」であることについて、「無垢なる善意」はちっとも悩まないし、理解すらしないのです。「行使する力」は、すべて「悪意」に属しています。そして彼はまた「行使される力・影響を受ける能力」についても欠いています。完全な「悪意」の霊能力者に対して、「無垢なる善意」たる桐島くんは、霊に影響されないばかりか、負の霊感を持っているのです(霊が避けて通る)。

そして第三項、「運命に抗う人間」。主人公。霊障をすさまじく受けやすいという「運命」。「行使する力」は、すべて「悪意」に属していました。そして「行使される力・影響を受ける能力」は、もちろん運命に翻弄される主人公にこそ、属します。しかし大事な点があります。それだけでは、彼が「運命」に対するには足りないのです。彼の「悲劇」は、性格の極めて悪い霊能力者と出会うことで始まりました。霊障をすさまじく受けやすいという彼の性質は、もちろんそれ以前から彼が持っていたものです。が、彼はそれを霊障によるものとは知らず、「ただちょっと(かなり)人より運が悪いだけ」だと思っていたのです。彼の悲劇は「知ること」です。それらの「不運」が、実のところ「霊障」と知らされることこそが、かれの悲劇なのです。なぜ彼が「運命に抗い」得る人間なのかといえば、自分の「運命」を発見する・知るからです。「運命」を知らない・自覚しない人間には、「運命」は存在しません。ただ困ったりすることはできても、「運命」(の自覚)なしには、「抗う」ことはできないのです。そしてここで「運命」とは、たとえ知ったとしても、そして抗ったとしても、「どうにもならないこと」のことです。桑田乃梨子の主人公たちは、「わかってはいるけど、どうにもならない事態」を常に生きる者たちなのです。だから彼らは、同じに悲劇であっても、オイディプスよりむしろヨブに似ています。オイディプスはそれと知らず自らの欲望を・そして罪を行うものであり、そしてヨブはすべてを知りながら(彼こそ神の死を予感していた最初の人物です)抗いようのない事態にたたき込まれるのです。
 
 加えてこの物語は、コメディ(喜劇)であることを(とりわけコメディ(喜劇)であることを)、急いでつけ加えなければならないでしょう。笑いを欲するものが手にすべき物語です。アリストテレスは「悲劇は尊い人間を、喜劇は劣った人間を模倣する」といいましたが(最も彼の『詩学』で喜劇について書かれた部分は消失してしまっているのですが)、すべて悲劇と「知った」上で、笑わざるを得ない私たちもまた、「わかってはいるけど、どうにもならない事態」を生きているのかもしれません。
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