こわかったこと


「文章読本 番外篇」から

     床屋政談なるものがあります。別に話題(テーマ)は「政治」の
    ことにかぎりませんが、大抵はまあ相槌うつしかしょうがない、た
    いくつな話であることがほとんどです。もちろん私は相槌を打つこ
    とにしています。相手は手に剃刀を持っているからです。
    「あれ、何?サリンっていうの?恐いねえ。ジョリジョリ」
    「そうですねえ」
    「あんな連中、さっさと死刑にしちゃえばいいんだよ。ジョリジョ
    リ」
    「そうですねえ」
    幸田露伴だって、「たとえ菜っ切り包丁・鰹節鉋でも刃物と名のつ
    く物を持ってる人間には、断じて冗談を云うんじゃない、おこらせ
    るものではない」とすでに大事が勃発してしまったような恐ろしい
    顔つきで、娘の文さんを諭しています。「生け花には女師匠がいる
    だろ、そういうばあさん連中のなかには黒い羽織なんか着てしなし
    なしなびでいるけれど、どうしてどうして立派な切り口を見せるの
    がいるから、うっかりしたことを云おうものならひどい目にあう」。
     タクシーというのもあります。あれなんか密室で、おまけに相手
    はハンドルを握っています。
    「あれ、何?サリンっていうの?恐いねえ。プップー」
    「そうですねえ」
    「あんな連中、さっさと死刑にしちゃえばいいんだよ。プップー」
    「そうですねえ」

 なんで、こんなつまらない、しかも一度載せた奴をもう一度アップしたかというと、最近すごく恐いことがあったんだ。すごく恐くて、でもその辺のことをちゃんと説明できなくて、考えても考えても言葉足りないし、そしたら前に同じような恐さ感じて書いたものを思い出した。この文章は、だじゃれでも小話でもなくて、実話なんだ。床屋さんとタクシー運転手さんは、きっかり同じ言葉をしゃべった訳じゃないけど、でもほとんど同じだった。
 その時、何が恐かったっていったら、本当に床屋さんがぼくの喉元をかき切るだろうことにおびえてた訳じゃなくて、おじさんがそんなことしないことは、たとえおじさんの言うことにぼくが異をとなえたって、ちょっとムッとするくらいでそれも顔に出さないでちゃんと髭をそってくれることは、知ってる(いきつけの床屋さんで、ほんとにいい人だ)。そうじゃなくて、おじさんは自分がカミソリを持ってるということを知らないってこと、いやちがう、おじさんはもちろんカミソリを持ってることを知ってるけど、それにぼくを「だまらせる」力があるってことをおじさんは知らない、そのことなんだ。
 おじさんがぼくに話しかけたことは、考えようによってはひどいけど、別に間違いじゃない。おじさんはぼくを悪の道にそそのかそうと思って言ってる訳じゃない。もうひとつ、おじさんは別に特定の正義をぼくに押し付けているつもりはない。「正義」なんて言われたら、おじさんは頭をかいて照れるだろう。おじさんは、ただ「そう思ったこと」を口に出して言ってるだけだ。ぼくがおじさんとは別のことを思っていたとしても、おじさんを批判するいわれはない。おじさんもぼくの「危険思想」を正そうと思って話しかけている訳ではない。相槌だって打たなくたってきっとかまわない。寝た振りしてでもやりすごせる。
 そしておじさんはたとえ、カミソリを持ってなくても、ぼくを「だまらせる」ことができる。何故って、せっかく「なかよし」なのに、わざわざ気まずくなってまで、おじさんに反論する気持ちをぼくが持ち合わせないからだ(おまけにおじさんの考えのどこが恐くてぼくはふるえているかを、おじさんに納得させる言葉をぼくは思い付けない)。今度は「なかよし」がカミソリになって、ぼくの喉元をなでる。そして「なかよし」のほかにももっといっぱい種類がある「カミソリ」をかいくぐって、相手にとどかせる言葉をぼくは知らない。そのことに本当に恐怖する。「なかよし」をはねのけることはたやすくても、今度は相手がこっちの言葉に耳を貸さないだろう。どうしたらいい?

 なんか自分の書いたもの「解説」するなんて悲しいな。それになんだかお説教みたいになってしまって、きっととどかない言葉になってしまった。それでも恐いから、とにかく書きました。 inserted by FC2 system