儀礼がわかれば、社会がわかる


 
社会組織そのものも、人々が儀礼的にあい集う機会を節目とし、それに支えられて成り立っている。連帯を生みだすのは、物事の儀礼的な側面である。集団がどれほど緊密に結びついているかは、日常的な出会いがどれほど儀礼化されているかによる。それゆえ、私たちが深く信じ込んでいる考えの多くは、実際的なものというよりは象徴的なものである。つまりそれらの観念は、私たちが集団の一員であることを示すものなのだ。そういうわけで、それらの観念を単に合理的な道具として用いて自分のまわりの世界を理解しようとしても、ほとんど役に立たないのである。
(ランドル・コリンズ『脱常識の社会学』p238)


 伝統的集団・共同体において、儀礼の重要性は言うまでもない。たとえば民族学・文化人類学の研究は、対象とする民族・集団がどのような儀礼を行うかを観察することで、その社会や集団の構造や文化を解き明かしてきた。
 儀礼(ritual)とは、集団やコミュニティの成員が定期的に加わる形式化された行動様式である。いわゆる宗教は、儀礼が行われる重要な状況のひとつであるが、儀礼的行動の範囲はこのような特定の領域をはるかに越えて広がっている。ほとんどの集団に何らかの儀礼的習わしがある(ギデンズ『社会学』)。
 むしろ社会・集団をつくりだす力こそ儀礼によってもたらされる、と考えたデュルケムによって、社会学の知的財産のひとつである社会学的儀礼論は始められた。儀礼を行う社会・集団は、伝統的集団・共同体に限らない。「ほとんどの集団」は儀礼行動を行う。つまり儀礼からほとんどの社会・集団現象を解くことができる。

 いくつかの実例を取り上げる前に、検討に便利なように、儀礼の一般的なあり方をまとめておこう。

(1)儀礼はまず、複数(2名以上)の人間の参加が必要である。彼らは集まり、多くの場合、直接対面する。

(2)そして儀礼は、整えられた形式どおりに行われる。このパターン化・形式化された行動が重要となる。先回りすれば、ある集団の儀礼行動は、集団外の者にとっては、しばしば風変わりで無意味で非合理に見える。しかし集団内の者にとっては、当たり前で重要で正しい行いに映る。このことが集団形成に大きく関わってくる。

(3)集団の観念を具現化する象徴(聖なるもの)が存在する。儀礼はこれに関わる行為としてパターン化・形式化されているが、逆に儀礼がこの「聖なるもの」を生み出すとも言える。儀礼と「聖なるもの」は一対のものである。「聖なるもの」は、聖なる観念である場合もあれば、聖なる事物ことも、また聖なるコトバであることもある。「聖なるもの」は、必ずしも宗教的なものではない。集団にとって、とても重要で、かつ、「冒涜」することができる、ことがその要件である。つまり、「聖なるもの」に対しては「してはいけない行為」を定義することができる、ということである。

(4)結果として、儀礼は集団の連帯をもたらす。あるいは、ひとつの社会をもたらすといってもいい。鉄則は、同じ儀礼を行う者は、同じ集団に属する、ということだ。逆に言えば、同じ儀礼を行わないものは、その集団に属さない。つまり儀礼は、人々を結びつけるのと同時に(それ故に)人々を分かつ・遠ざける。

 きわめて簡単だが、この程度にまとめておけば、事例の分析に入ることができる。

 先にのべたように、儀礼論は、およそあらゆる社会・集団に適用できる。

1 「地域コミュニティをまとめる祭礼」は、もっともわかりやすい例だろう。宗教起源のものが多いが、仮にその要素が弱まっていても、現実に地域コミュニティをまとめる力を生み出す機能を有している。この簡単な事例は、後ほど再検討することにしよう。

2 「科学的真理」と「科学者コミュニティ」を儀礼論で解明する研究がある。いわば「未開人」の風変わりな風習を研究していた人類学者はもちろん、理論物理学や数学といったハード・サイエンスに携わる人たちにも、儀礼論は当てはまる。
 (1)まず複数の科学者が(必ずしも対面を要しないが)参加し(2)科学的方法という、厳密に形式化・パターン化された行動が(3)科学的真理という「聖なるもの」を巡って執り行われ(4)結果、科学者コミュニティ、あるいは「○○学」「××学派」という集団的営為に参加するもの同士のネットワークが成立する。
 「真理」に報じる彼らは、たとえば「国籍」を問わず「仲間意識」を形成する。「聖なるもの」を作り出すのは、彼らがすぐれた知能と莫大な時間を費やして身につけた、複雑で厳守しなければならない科学的方法あってこそである。この儀礼を行わないもの(行えないもの)が発表した知見は、決して「科学的真理」であるとは見なされない(その者は科学者として、科学者コミュニティ/ネットワークに迎えられることはない)。ここに儀礼論の重要な知見がある。つまり「同じ儀礼を行う者は、同じ集団に属する。同じ儀礼を行わないものは、その集団に属さない」。ここで登場する儀礼は科学者コミュニティをつくるだけでなく、科学/非科学の峻別を作り出す。儀礼は、しばしば複雑ですぐには理解できない。異国の種族の村に、その儀礼をマスターして一員として迎い入れられることが容易でないように、科学者(科学者族?)の一員になることも簡単ではない。科学者社会(そして科学という集団的営為)を作り出すものも、また一種の儀礼なのである。この例は、儀礼論の射程距離がかなり長いことを教えてくれる。

3 「上流社会」。たとえば社交界で取り交わされる「たわいもない」会話(その内容、登場する固有名詞や隠語)は、部外者にとっては風変わりで無意味だろう。科学者たちが交わす専門用語にもそんなところがある。両者に共通なのは、だからといって、部外者には容易に真似することができないことだ。たわいもない会話は、社会をなりたたせ、また内/外を峻別する会話儀礼である。科学者たちは専門用語の交換を「科学的真理」とその正確な(真理にふさわしい)伝達に不可欠なものとする(理解できない我々にとっては呪文のようだが)。社交人たちは、不躾なよそ者を排除し、自らの洗練された有り様を「卓越化」(これがここでの「聖なるもの」だするためにそうする。育ちの良さや家庭環境、培われた人脈がもたらす情報が、そうした会話儀礼には、必要だ。コトバだけではない。立ち振る舞い、エチケットといったものも、交わし合われる。ここでも「同じ儀礼を行う者は、同じ集団に属する。同じ儀礼を行わないものは、その集団に属さない」が明らかになる。ブルデューは、こうした卓越化(のための儀礼)に必要なリソースを「文化資本」と呼んだ。
 特殊なコトバを交換して仲間意識を生み出すことは、どんな小集団でも行われている。「上流社会」の会話儀礼が質が悪いとしたら、より大きな社会の中にそれが組み込まれていることだろう。その集団内の人たちばかりでなく、他の人々にとっても、彼らの会話は「上品」で「文化的」である。加えて「文化資本」の所有者たちは、それによって可能となる儀礼によって、独自のネットワークを作り上げ、「経済資本」へのアクセスを容易にする(そのネットワークである種の接近機会を独占している、といってもいい)。なぜ人々は上流社会と関わりを持ちたがるのか。それが実質的な(つまり経済的な)富へアクセスする重要なルートであるからだ。誰もがある儀礼を行えるわけではない。それ故に儀礼リソースの独占は、階層分化を、ときに支配−被支配の関係をも生み出す。つまり「たわいもない」会話儀礼は、単に集団を分けるだけでなく、その分割を階層化する一端を担っている。

4 「近代組織」。いわゆる組織論のベースにある組織均衡論は、組織の成員を合理的主体とみなして、組織との間の誘因と貢献の交換関係を見出す。しかし、デュルケムがいうように、合理的主体の「合理的判断」から集団が形成されることは不可能である。彼らが十分合理的であれば、それぞれ都合のよいところで「裏切る」あるいは「ただ乗りする」(組織から誘因=報酬を引き出しつつ、組織への貢献をさぼる)ことが最も合理的だからである。この問題は後に「オルソン問題」として定式化された。デュルケム起源の儀礼論は、合理的契約の非合理的前提をなすものとして、組織論においては組織文化論を包括するのみならず、避けがたい組織内分化の原理をも含み持っている。
 組織は多くの儀礼によって成り立っている。ここでは、企業城下町での企業ぐるみのイベントなるものよりも、より小さく日常化された儀礼をみることにしよう。
 ここで取り上げる日常的やりとりの儀礼が生み出す「聖なるもの」は、組織そのものである。たとえば「組織で仕事をしないといけない」「○○部局としての考えはこうだ」といった会話儀礼。「組織合理性」を未心得のものに伝達しようとする際に発せられるこうした「教え」は、しかし組織成員のすべてによって口にされ、また受け取られる訳ではない。
 大規模な(企業)組織の成員は、通常何層かに階層化されている。上記の「組織合理性の教え」の取り交わしという儀礼は、上層に位置するいわゆるエリートたちによって行われる。この儀礼によって「組織」へのコミットメントを互いに確認し合い、また「組織」の存在を感じ取る。対して、下層の非エリートたちは、「金のために働いている」という経済合理性がより強く自覚されるから、デュルケム/オルソンの予想どおり「組織からなるべく多くを引き出しながら、より少ない貢献で済まそうとする」だろう。
 だが組織としては、上層から下層まで、こうした儀礼を執り行い、組織へのコミットメントを等しく高めてもらった方が、より効率的ではないか。では何故そうしないのか?組織に関しての会話儀礼には(上流社会の会話儀礼がそうであったように)、一定のリソースが必要である。それは組織の中枢部に所属することで得られる組織運営に関してアクセスする機会であったり、希少性の高い情報であったり、もっと直接には組織における一定の権限であったりする。そうしたリソースをより多くの成員に配布することは、コストとリスクがかかる。複雑な業務遂行や意志判断には不可欠なリソースなので、そうした事にあたる成員には与えるのは致し方ないが、単純作業に関わる成員には多少のモチベーションの低下を犠牲にしても、金銭による管理の方が安上がりになるケースが多い。また情報の価値は希少性に左右されるので、価値ある情報をもつ成員は、その流通を制限したがる傾向がある。したがって、「組織についての会話」儀礼のためのリソースもまた希少化される。また上層に属することは、経済的機会(昇進や昇級、退職後の再就職機会など)への接近を増すことになるので(上流社会の排他性と同じ理由で)、儀礼は階層分化的に行われる。結果、この儀礼を通じて一部には組織へのコミットメントが生じ、同時に組織内の階層分化が生じることになる。
 
  inserted by FC2 system