流しの百姓

流しの百姓

Sさんは、流しの百姓である。
「流しの百姓」なので、自分の土地を持たない。それどころか、地主から土地を借りて耕作することもない。「流しの百姓」は定住しない。労働力の不足してる本百姓のところへいって、労働力を提供する。「雇いの百姓」である。
農村社会では、当然その地位(身分)は低い。おまけに、地主=「持てるもの」に雇われるのだから、小作人とも敵対関係になる。よその村から流れてくるのだから、ますます風当たりはきびしい。
普通、貧農の次男、三男以下が、他の家の手伝いになることあるが、よその村まで行って、さらには国から国へと渡り歩く者はそうはいない。実のところ、「流しの百姓」は単なる労働力の提供だけを受け持つのではない。それだけなら、そう安々とよその村に入り込むことはできないのだ(その村にも、貧農の次男、三男以下がいるのだから)。
「流しの百姓」は、新しい農業技法の開発と伝播を司る。「流しの百姓」は、農業改良家なのだ。新しい農業技術の導入と定着のために、地主は「余所者」を雇い入れるのである。だから「流しの百姓」は、腕がよくないと、深い農業知識と経験がないとやっていけない。その意味で、「流しの百姓」は腕一本で生きるプロの農民である。何百年も前から先祖代々の土地にかじり付き、何百年来同じように耕してきた連中からみれば、ますます「いかがわしい」ということになる。
 イギリスでは早くから、地主と農場経営者(農業企業家)と農業労働者が分離していたが、日本ではそうではない。しかし「流しの百姓」の歴史はよくわからないくらい古い。「流しの百姓」は、土地を持たない百姓だから、「家」を持たないし、「家」の再生産過程であった「結婚」もしない。子孫も持たない。江戸の町だって、結婚したのは人口からすれば、ほんの一握りの人だけだった。それと同じである。「流しの百姓」は受け継がれるものではなかった。彼らは独自の集団や結社を持っていたのかどうか、それもよくわからない。だが、日本の農業構造から半ば必然的に生まれ、各地を放浪し、そして最後にはある土地へ帰順し、あるいはさらに流浪し、「消えて」いったのだろう。そしてそのサイクルは、日本の農業が彼らの職能を必要とするうちは、いたるところで繰り返された。彼らが開拓地や大陸へ渡ったころには、もはや日本の農村から彼らが駆逐され始めていた。

Sさんのお話。
「今年(1993)のような凶作だと、肥料も農薬もやらない水田の方ができがいい。本来、何の肥料をやらなくても、1反の水田からは5俵の米が取れる。肥料をやると、それよりもやや収穫が増すが、しかし米ができるのはその分遅れてしまう。寒い地方では、その分冷害に合う確率が高くなる。霜に当たれば一発なのだ。
昔は、「一寸、一日」といった。稲藁が、一寸刈り残してあれば、来年の米の稔りが一日遅れるというのである。残った稲藁が腐って肥料になってしまうからだ。昔はそれを嫌って、土すれすれに稲藁を残さないように刈り取った。それくらい、肥料分を入れることを拒んだのだ。そんな知恵も忘れるくらい、肥料、農薬入れての僅かな増収を尊んだ結果がこうだ。
 例えば機械化農業のために広い水田を作る。広い水田は、表面積が大きく、その分風の影響を受けやすい。風が吹けば、水が風下に寄ってしまい、水位の高い低いができる。水位の低い所は断熱材が少ないのと同じなので、その分成長に遅い早いができる。ところが機械化農業なので、収穫は一斉にやらなくてはならない。遅い方に合わせることになる(地中にパイプを埋めて、水位を均等にする方法で、いつも通りの収穫を上げているところがある)。
 加えて商品価値が高いからと無理な品種を選択して、寒さに弱いものをつくったり、冷夏には高く水を張って水の断熱保温機能を利用するという古くからの方法があるのに、土がぬかって機械が入りにくいと嫌って、寒さにやられたりしている。今年の不作は、半分は人の仕業である」

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