「家族」についての、ふたつの「悲劇」

 家族史の考察は、家族制度の歴史変遷を母権と父権の対立のダイナミズムから読み解いたバッハオーフェンの『母権論』に始まる。
 母親は出産によってそれが「わが子」であるとの確信を得ることができるが、父親にはそれがない。この差が最も顕著に現れる状況を、バッハオーフェンは娼婦制(ヘテリスムス)という一種の乱婚(パートナーについて無制約な性生活)として想定する。このような状況下では、父権(父性)の確実性はすべて排除され、したがって血統は母権(母性)によってしかたどれないだろう。母親は、若い世代の唯一確実な血縁者としての地位を得、ここに母権制の成立を見る。

 バッハオーフェンはこの観点から、古代ギリシャ悲劇の代表作のひとつ、アイスキュロスの唯一三部作として完備した形で現存する悲劇『オレステイア』を解読していく。彼によれば、この悲劇は、没落していく母権制と、英雄時代にギリシャ社会に台頭しやがて席巻していく父権制との闘争を比類なき荘厳さで描き出している。
 三部作の構成と大方の筋は以下の通りだ。

 第一部「アガメムノン」では、トロイア戦争から凱旋したギリシャ軍の総大将アガメムノンが、その妻クリュタイムネストラに殺害される。
 第二部「コエポロイ(供養する女たち)」では、彼らの息子オレステスがクリュタイムネストラを殺して、父の死の復讐をとげるが、母殺しの罪を負う。
 第三部「エウメニデス(慈みの女神たち)」で、母殺しのオレステスは、復讐の神々エリニュスに追われ、狂気の中に放浪するが、やがてアテナイの法廷でアテナのはからいにより無罪となり、エリニュスたちもこれに同意し、以後はアテナイを守るエウメニデス(慈みの女神たち)となることを約する。

 すべての係争問題は、第三部の、オレステス対エリニュスの法廷闘争に持ち込まれる。法廷にかけられるのはすなわち「夫殺し」と「母殺し」である。
 神託によりオレステスを復讐に赴かせたアポロン、そしてこの法廷の主宰者であるアテナは、父権制の守護者である。彼らは、夫−父殺し、すなわち家長殺しをより重く見て(すなわち母−子という自然的生物的関係=血統だけでは、夫−父という「余計者」を組み入れないかぎりは、家族は成立しないという訳だ)、結局はオレステスを救い、エリニュスを説き伏せるだろう。
 では夫殺しであり、復讐者オレステスにとっては父殺しにあたる、クリュタイムネストラを、何故エリニュスたちは告発しなかったのか。母権制を代表するエリニュスたちは、きっぱりこう言い放つ。
               、、
「彼女は、その殺した男とは、血縁ではなかった」

もっとも重い罪は、血縁者殺しの罪であり、血縁とはまさに母との間にこそ確実に結ばれ得るものだった。したがってエリニュスたちは血縁関係を守護し(それに関わらない事項・罪を彼女たちは問題にしない)、母親殺しを究極の重罪として告発したのである。
 

 ピランデルロ『作者を探す6人の登場人物』という悲劇は、その名のとおり、自分たちの間に起こった悲劇を表現してくれる作者を求めて、芝居小屋の勝手口から、新作戯曲が練習されている舞台の上へと、喪服をまとった「6人の登場人物」が割り込んでくるところから始まる。
 父と母、大きな息子と娘、そして小さな男の子と女の子。かつて夫(父)は、その妻を別の男と一緒にさせるため追い出した。母(妻)は、その男との間に3人の子供をもうけた。父はしかし、その3人の子にも同じく愛情を注いだ。やがてその「別の男」が死に、母親と3人の子供たちの行方はわからなくなった。しかし、偶然から父と義娘が再会し、父と母とその間に生まれた大きな息子、それから母と「別の男」の間に生まれた3人(大きな娘、小さな男の子と女の子)がいっしょに暮らすようになる。そして愛情と嫉妬と憎悪の家族悲劇の中で、小さな女の子(末娘)が井戸に落ちて死に、小さな男の子がピストル自殺を遂げる。

 舞台の上で、「父(夫)」はこのように言うのだ。

「このドラマの結末は、女の子の死、男の子の自殺、養女(義理の長女)の家出、ということになります。母親がよそで拵えた子供たちは、残らずいなくなってしまいました。
 それらの家族は生存することができなかった、すなわち《私の家》にとっては《赤の他人》だったからでしょう。
 まずこういった多くの悲しみの後で、我々3人----私、妻、息子の三人は、《他人であった家族》がいなくなったため致命的な絶望に堕ち、今度は自分たち自身が《赤の他人》になってしまいました……」
 
 
 

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