テツガクがエラクなった理由

 あの、ぱっとしないドイツ観念論が哲学の分野で一時世界を席巻したのは、ドイツの大学システムが世界的に採用されたからである。それくらい当時のドイツではじまった大学システムは「優れて」おり、哲学はこの大学システム改革に関わることで、まんまと「万学の女王」たる地位をかすめとった。

 哲学はそれまで、1000年以上も長い間、ガキ(初学者)が学ぶものだった。医学や法学といった「まっとうな学問」をこの先学ぼうとする者が、基礎を身につけるために習うもの(といえば聞こえはまだいいが)、読み方や綴り方みたいなものだった。当然、哲学教師の地位は、てんで低かった。

 ヨーロッパで啓蒙主義の知識人たちが華やかなサロンで活躍していた時代、プロイセンやその周辺で小さな「異変」が起こった。それは西洋の知識世界を大転換する端緒だった。はじめて無料の義務教育の小学校が設立されたのである。義務教育制度は、当然ながら、大量の教師の供給を必要とした。これが大学の教養課程(哲学課程)の重要性をよみがえらす圧力となった。これまで大学の専門課程に学生を供給するだけだったセクションが、公立学校へ教師を供給するという知的市場で一番の成長分野を担うことになったのである(ドイツでは中等教育と大学は分離しておらず、教職ポストはどちらも連続していた。多くの大学教授がギムナジウムの教師からそのキャリアを開始した)。しかも人材を作る人材をつくるという、このプロセスは拡大再生産となった。知的分野のテイク・オフが始まったのである。

 こうして、教養課程がこれまでの従属した地位を逃れ、活動自体の独自性を主張する機会が生まれた。しかも、専門分化した神学部(神学者)や法学部(法律家)とことなり、教師が持つべき知識には内在的な制限はない。専門的な教員養成機関としての独立性と、知的分野・研究分野の非制限性とが、この古くて新しい教養課程に独自の地位を占めさせることになった。ここでカントが、フィヒテが、シェリングが、全く新しい形態の哲学を提案した。もはや基礎課程でも、ひとつの科学でもなく、「万学の女王」であるような哲学を。1810年、ようやく哲学部は大学院を持つようになり、教養学の学位(すなわちPh.D)が公立学校の教職のために授けられるようになった。

 先にふれた知的人材の拡大再生産によって、大学生が増え大学教師の数もまた増えると同時に、激しい競争が生まれた。教師たちは学識ばかりか独自性をも競い合い(競争の結果、生き残れる場所=ニッチを探し求めて専門分化が進んだ)、その結果、哲学と人文科学、同様にして数学などの、純粋科学が誕生した。つまるところ、知識人共同体の歴史上、かつてないほどの内部分裂が生じた。

 サロンやアカデミーを抱えるヨーロッパ諸国では、知識人は著作を著し歓談し文通したが、ドイツの大学の教師たちが経験したような激しい専門分化の波にも知的競争にもさらされることはなかった。ヨーロッパの知識人はこのころ、よい意味でも悪い意味でもアマチュアだった。ドイツでは自由なサロンが官僚制的な大学に置き換えられ、組織に見合った専門化を進めていった。この中で失ったものも少なくなかったが、専門分化と競争圧力によって生まれた高い学問生産性に、やがてヨーロッパの他国は後塵を拝するようになる。19世紀には(そして20世紀に入っても)、ヨーロッパ中から学生・学者がドイツに留学し、そのシステムの一端でも持ち帰ろうとした。世界で、「万能の知識人」は消滅し、「大学」が知的世界の独占者になろうとしていた。 inserted by FC2 system