江戸時代の流通

江戸時代の流通

 時の老中、水野忠邦は、とどまるところを知らない江戸の物価急騰の原因が、株仲間による市場独占、流通機構の支配にあると見て、株仲間、諸問屋の解散を命じた。天保の改革と呼ばれることになる改革の一つの柱である。自由競争の障害を取り除き、市場の原理に価格をゆだねることで物価を下げようというのである。一種の規制緩和である。
 結果、江戸の物価はますます上昇した。幕府が株仲間を通じて行なっていた物価抑制のタガが外れてしまったこともあったが(その程度のことは当然、忠邦も予測していた)、一番のポイントは、そもそもの物価高騰の原因が(主に大坂から)江戸へ入る物資量が、つまり商品の供給がすでに江戸の町の需要に足りないことであったのに、幕府はそれを見逃していたのである。
 この時代、日本最大の商品消費地である江戸の需要は増大していたが、江戸に入る物資の量は減少し続けていた。そこに「株仲間、諸問屋の解散」が流通機構に混乱をもたらしたのだから、ますます商品が江戸に入ってこなくなった。
 江戸への物資流入の減少自体が、日本の流通機構の構造変化によっていた。当時、各生産地から一旦大坂に入った荷は、菱垣廻船(江戸・大坂間を定期に航海した百石以上の貨物船)で江戸に入るのが通常であった。ところがまず大坂に入る荷自体が減少し始めていた。菱垣廻船は、江戸十組問屋と大坂二十四組問屋とに従属した、純粋な運送業として海運を担ってきたが、それに対して新しく台頭する勢力があった。各生産地を自分の船で回り、自分の資本でもって商品を買付け、それを独自のルートで売り捌く内海船である。政府の公認を受けた、いわば正規のルートは、内海船のいわばゲリラ的な活躍に、次第に侵食されていく。
 ここで重要になるのが赤間関(現在の下関)の港である。日本海から大坂へ向かう海路は必ずここを通らねばならなかったし、また海流他の都合で入港するのが常であった。内海船たちは、この港で大坂への荷を待ち受け、彼らが大坂の問屋と交わす契約よりも高い値で買い上げていった。この港を押えれば、日本海側の生産地をすべて押えたのと同じであったのである。大坂へ行くはずの荷は、途中でインターセプトされ、こうして公認の商品流通とは異なる流通に乗ることになる。

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