江戸時代の航路

江戸時代の航路

 江戸時代の経済圏を構成していた運搬ルートは海路であった(人間の移動は陸、荷は海)。汽船のなかった時代だから(汽船が一般的に登場したのは西南戦争以降である)、その航路は風(季節風)と海流(親潮、黒潮)に左右されていた。例えば房総半島から江戸に入るには海流に逆らわなければならず、西から江戸に入るのに比べ恐ろしく時間がかかった。つまり時間によって構成される距離感は交通手段に左右されるから、我々が地図を見て俯瞰的に養った距離感とは異なる距離感で経済網が構成されていたのである。
 もうひとつ、江戸時代と明治以降の交通網が異なる理由がある。それは河川の水量である。山林の私有化以前の日本の河川は今からは想像もつかないくらい水量豊かで流れも緩やかだった(日本の川の急流をヨーロッパの河川とのまことしやかな比較で論じたものがあったが、近代以降のその変化に目をつぶったものだったわけだ。陰謀くさいものを感じないか?)。そのため、船は沿岸部に発達した航路を持つだけでなく内陸部まで相当深く入ることができた(内陸のかなりまでが「沿岸」だった)。その航路は単に荷を積んで川を下るだけの一方通行なものでなくて、例えば現在の群馬県高崎市あたりまで上がる航路があった。「日本地図」はもはやあのような形はしていなくて、内蔵のごとき入り組んだ河川は引きずり出され、「皮膚」になる。

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