江戸時代の経済圏

江戸時代の経済圏

 江戸時代の金経済圏は尾張、江戸を含む表東日本であり、一方銀経済圏はそれ以外の西日本及び大半の裏日本であった。経済力の比率はおおざっぱにいって、金:銀=4:6。当時の日本経済の中心は大阪(商業の中心地)、京都(当時随一の軽工業中心地)を中心とする銀経済圏であった。人口では大差ないが自分の領地から米を得る武士が多い江戸に比べ、米の消費者では多くを抱える大阪が米取り引きの中心となったのは当然であった。
 金経済圏にその中心を置く幕府は初期から銀経済圏を押え込みあるいは手なずける為に様々な方策をとった。大阪、京都、長崎の直轄もその一つであり、また膝元の江戸商人を大阪に乗り込ませるよう計ったのもそうであった。後者は大阪商人の猛反発(それを後押しした加賀藩などの動き)によって失敗に終った。やがて幕藩体制が緩みはじめると、直接に銀−金レートの操作(具体的には銀貨の改悪)などもおこなった。
 銀経済圏は故に日本史の影の立役者でもある。薩摩・長州の倒幕には銀経済資本の影が見てとれるし、なによりも八代将軍吉宗の紀州は御三家で唯一銀経済のバックアップを得られたところである。田沼意次の政策もそうした二つの経済圏の統御という点から考えることができる。
 三井のような大商人は二つの経済圏という状況をうまく利用した。三井はそもそも御服問屋で、京都(当時の手工業の中心:銀経済圏)で作られた服を江戸(金経済圏)に売っていたが、その便宜のため両替商をはじめた。やがて銀−金レートの相場自体で利益を得るようになり、幕府のおかかえとなってからは、天領の米を大阪で換金、それを江戸に送る日数(20〜30日)の間、自由に運用することで利益を得た。三井は米の代金を直接(船などで)江戸に送ることをせず、江戸の三井から直接引き落とした(今の為替みたいなもの)。あるときは銀−金変換で富を得、またあるときは変換せずそれ本来の市場で運用することで利益を得たのである。

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