モノについて

SUB:モノについて(第1回)
 物語をお読みになった方はご存じのとおり、ピノキオは「反省」はしますが、「経験」はしません。さっきあんなに「反省」したばかりだというのに、ピノキオはすぐに悪い仲間の誘いに乗ってしまうのです。

 その粗筋はこうです。
  1.馬鹿で無垢なピノキオ
  2.悪い仲間にそそのかされて悪をなす。
  3.鼻伸びる。こっぴどく反省。
  4.けれどすぐにやっぱり馬鹿で無垢なピノキオ
  5.2〜4を際限なく繰り返す。
 これでは人間になれません。

 物語を終了させるために、まるでとってつけたように、ピノキオはいきなり「人間」になります。彼は悔い改め自分の罪を受入れ善行をなす存在になったので人間になれたことになっていますが、たとえそうであっても、幾度も繰り返された2−4は、それにはちっとも貢献してないのです(馬脚をあらわしましたね)。ピノキオのような者のことを、ここでは敬意を込めて「モノ」と呼びましょう。モノは、めずらしい存在ではありません。たとえば、のび太は、ごく限られた瞬間を除いてはモノです。

 彼らに欠けているのは欲望ではありません。彼らに欠けているのは、知的(コグニクル)な思考を構成するはずの表象力、イメージ=想像する力です。たとえば「芸術家」が想像力を必要とするというのは凡庸な考えですが(「芸術家」というのはすでに凡庸な考えだったりしますが)、想像力というのは、このパンを食べたらもうパンがないから明日は腹ぺこ、といったことをイメージする能力です。そしてまた、こういうイメージの力がないものは、きっと飢え死にするだろうといったことを、想像する能力でもあります。もちろんモノだってきっとその度(つまり終わってしまったあとに)我に返ります。

     ・・
「あかん、またやってしもた!」

 けれど繰り返しモノはモノしてしまうのです(こんなのちっとも想像力じゃありません)。キルケゴールが「反復」ということを云っています(実はあまり関係はありません)。モノは望んでなるものではありません。全然「なる」ものではないのです。たとえば望んで馬鹿になることは、このうえなく小賢しいことですが(一体何様のつもりでしょう)、その賢しさだけでもうバカではありません。人は馬鹿になることはできません。ただ馬鹿として生きてしまう、馬鹿やってしまうだけです(もうバカバカ)。おそらくはモノについて、馬鹿と同じことがいえるのだと思います。モノになることも、モノたることを選ぶことも、できません。

 たとえば固有名詞を使いますが、井上陽水というのはモノだと思います。南こうせつという人が(ようするに自然主義文学者みたいな人ですが)、井上陽水に向かって「陽水オマエはきたない。釣りというものは、人と魚の一対一のたたかい、知恵をつくしての勝負なのに、陽水オマエときたら、炭鉱からダイナマイト持ち出してきて、池に投げ入れてドカン!」。これを爆弾釣りといいます(すでに釣りでもなんでもありませんが)。モノに対してこのような批判をする人は、近代人です。ともかく立派な自我の持主です(立派といったって、たかだか自我ですが)。モノには「人と魚の一対一のたたかい」なんてわかりません。それは想像力(イメージ)の成果なのです。モノは別に、人間の勝手な思い上がりを身をもって批判している訳ではありません。この場合、ただのなまけモノなのです。釣りの仕掛けを考え、浮きをとりつけ、棚をとる、なんて芸当はとってもできないのです。

 サルトルは人間の自由の根拠を、意識に見出しました。それは対自であって、即自、即ちモノではない、モノは不自由だが人間は自由だというわけです。サルトルの哲学はほとんどこの「即自と対自」の二元性で説明されちゃいます(信じないように)。

 サルトルはそうした二元性を明確にするために、意識を「無」であるとし、モノを「存在」と呼びました。モノが即自であるというのは、「そのまま動けない」ものだということです。「動く」というのは物理的に動くということでなくて、「折り返し」がないということです。「折り返し」というのは、意識の作用のことで、つまり「自分はどうだこうだ」と(自分に折り返ってきて)反省する作用のことです。意識は、それによってモノがモノそのもの(笑)であることを確認し、それとともに自分がモノでは「ない」ことを認識します。ちょっとエラそうです。この「モノでない」ことが意識の自由の根拠であり、「どうだ、モノはそもそも「自分がモノである」とも思わないだろう」というのです。

 サルトルの出発点は想像力に関する議論で、それは後の体系まで一貫したものでした。サルトルの場合、想像力は現実を無化することによって(自由に)変革する能力として高く評価されたのです。

 けれどスピノザは石も意識を持てば「自分は自由だ」と思うだろうと言っています。逆に言えば、人間も石も、「意識=自由の意識(自分が自由であるという想像する=勘違いする)」を持つだけで大した違いはない、というのです。

 それどころがスピノザ(彼の表象=想像力批判はつと有名です)は、ヒュームと同じに、「自我なんてないんだ」と考えていました。と、続きは次回……。

モノについて (第2回)

 今回は補足説明みたいなものなので、飛ばしても結構です(笑)。

 ヒュームという人(イギリス人です)は問うてみました。「私」、「私の心」、自我なるものは存在するや否や?何を馬鹿な。そう問うているのは一体誰なのか、考えてみればわかるではないか、とちょっと気のきいた人なら答えそうです。でも自我なんて見たことある?それがどんなものかちゃんと知ってる?「自分」と呼ばれるものの中をもう少し詳しく見てみよう、とヒュームは提案します。そこで出会うのは、自我なんてものでなく、もっと個別的な、たとえば暑いとか寒いとか、明るいとか暗いとか、愛とか憎しみとか、苦しみとか快楽とか、そういった何か(知覚や情念や感覚印象やなにか)です。こういった個別的な知覚なんかなしに決して「自分自身」と呼ばれるものを捉えることはできないし、実際のところ個別的な知覚情念や感覚印象以外のなにものもそこに見いだすことはできません。つまり、とヒュームは結論します、自我などというものは、それ自体実在する訳でなく、さまざまな知覚なんかの束にすぎない。あるいは知覚印象・観念の一過的な(その場限りの)構成の結果(うたかたのようなもの)にすぎない、と。
 かつての人工知能のボス、いまはロートルのミンスキーというおじさんは、「心の社会」というのを思いついて、同じタイトルの本を書きました。ヒュームは、もっと昔に「知覚の共和国」という言い方を発明してました。一個の人間精神の固まり(自我)というのが、どれだけ大雑把な見方に基づくものかを、彼らは主張しているようにも思えます。「一個」と思っていたもの、そんな風に統一されていると思っていたものは、いろんな思いや感情や知覚や何かの、その都度毎のアンサンブル、である、と。これは「こころ」を、いわば一種の「機構・機械」(あるいはシステム)として見る見方につながっていきます。ヒュームは、連想心理学の遠い先駆者ですし、人工知能野郎のミンスキーについては言を待ちません。いろんな思いや感情や知覚や何かは、様々にインプットされ、互いに関わり合い、結び付き、あるいは分割されて、また別の思いや感情や知覚や何かを産みだし、そのいくつかはアウトプットされ、いくつかはメモリーされ、いくつかは、また別の思いや感情や知覚や何か関わり合い、結び付き、あるいは分割されて……、といった「心のシステム」。あるいは我々が自我とか心と思っているものは、そうした機構(システム)の作動した「結果」だということです。
 で、また例のサルトルですが、彼はもちろんこの手の「心のシステム」論が許せませんでした。これは、人間の自由に執着するサルトルなら当然のことです。サルトルの考えでは、我々の性格や精神状態は、何らかの過去にある、あるいは「外」にある、原因によって決定されているのではなく、我々がそれを選んだもの、自由な決断による、ということになります(サルトル、フロイトが大嫌いです)。要するにサルトルは、自我というものを信じていて、さらにそれが自我とか今の心的状況、あるいはもっと他の状況に対してでも「原因」であり得ると考えているのです。でなければ「主体的」な態度なんか、出てきようがありません。
 「心」があるやなしや。双方が自分の感情や気持ちや思考みたいなものを否定していない以上、この対決は、「心」は「原因」であるか、それとも「結果」であるか、という対立になります。
 どうしてそれら、現れては立ち消え/生まれては消費されていく個別的知覚・印象たちが、「私の感覚」「私の欲望」「私の思考」なんかに束ね上げられ、すり替えられてしまうのか。あるいは同じことでもあるのですが、いかにして我々は見聞きしたこと以上を語り、与えられた個別的知覚・印象を越えていくのか、いかにして「結果」であるにもかかわらず「原因」であるかのように振舞うようになるのか=つまりいかにして「主体」となるのか)、その境位をヒュームは見ているのです。

(スピノザまで行きませんでした。補足が次回も続きます)。

モノについて (第3回)

 ジャイアント・ロボというヒーローがあります。彼はロボットであり、常に命令を受け、命令に従う存在です。少年が通信機に向かって音声で命令すると、ジャイアント・ロボは「ま」という声を出して、そして行動します。
「ジャイアント・ロボ、うごけ!」「ま」
「ジャイアント・ロボ、やっつけろ!」「ま」
どう動いたらいいのか、誰をやっつけるべきか?オペラントなしの命令(笑)。命令がどんなに抽象的でも、ロボは返事し(笑)、そして行動します。
「ジャイアント・ロボ!なんとかしろ!」「ま」
白痴のフール君ですら、「だー」と「にー」2種類の答えを持っているの云うのに、かれは一種類の「答え」しか持っていません。そして後は行動で示すのです。断わることを知らない。究極のYESマン。
 これはモノです。
 ある人がすばらしい言葉をくれました。
「モノはYESでできている」

 スピノザという本物の哲学者がいて、彼はヒトのためでなくモノのための哲学を書いたのですが(笑)、ある本の中で「感情論」というのをやっています。つまり、たとえば怒りという感情は、どういう仕組なのか。とか、それぞれの感情について、仕組とか仕掛けを明らかにしようという試みです。何故こんなことが可能かといえば、感情には仕組があるから、つまり感情はその「結果」だからです。実は「感情論」自体は、スピノザの前のデカルトという人もやっています。でも二人には決定的にちがう点があります。
 デカルトは、「こうやって感情を分析しとけば、感情から自由になれる」と云いたかったのです。ですが、スピノザはそんな訳ない、といいました。何故なら感情は「結果」であり、ぼくらの意志や心も、感情に対して全然「原因」でなく、むしろ感情とそっくり同じに「結果」であるからです。意志や知性で感情をなんとかできる訳ではないのです。意志や知性も、感情と同じ穴のムジナだからです。
 では何故スピノザは「感情論」をやるのでしょうか?「怒り」の仕組や原因がいくらわかっても、その怒りがおさまる訳じゃありません。話のレベルをかえると、いくら世の中の仕組が分かっても、その仕組から自由になれる訳ではありません。
 けれど、そうやって怒りつつも怒りを分析するってことだけが、そうは思えないだろうけど、「怒り」に負けないことなんだ、とスピノザは云うのです。
 デカルトは、怒っちゃいけない、だからその方法として「感情論」をやるのだ、といいます。それに対してスピノザはいいます。怒っていいんだ。だって現に「怒り」ってあるんだもの(今、現に怒っているのだもの)。どうしようもなく感情というのはある(感情をどうにかすることはできない)でも、だから「感情論」っていうのもあるんだ、と。
 「ヒトは反省する。モノは反復する」
 ここに二つの「感情論」があります。すなわち感情を「反省」するデカルトの感情論と、感情を「反復」するスピノザの感情論とです。どちらを選ぶべきなのかはわかりませんが、実のところ「選ぶ」ことのできるというのはデカルトの感情論の方で、スピノザの感情論は(感情を)「選ぶ」ことができない点に立っているのです。感情に対してNoといえるか、それともYesと云い続ける他ないのか。

次回は、「反省」と「反復」についてです。

おそらく「人間は機械だ」ということを認めるに、スピノザはやぶさかでないはずです。それは人間の身体が物質でできているということでなく、心やら魂なんかもふくめて、そこには仕組みがあってその仕組みの通りに人間が作動する、歯車でできているとか肉でできているのか知覚や情動でできているなどに、かかわらずそうだということです。たとえば人の感情なるものには原因があります。ということは、感情は何かの結果だということです。人が何が意志したり、何か思い浮かべたりするのも、結果です。こうしてスピノザは冷徹に「自由意志」なるものが、勘違いであることを証明します。ようするに自分の意志でこうしてるんだ、こう考えているんだ、と主張する人は、自分が何故そうしようと意志したか、何故そう考えるにいたったか、を知らないか忘れているのです。彼らは「原因」を忘れているので、自分が「結果」であることも忘れ、それどころか自分が「原因」であるとまで思っているのです。重力に引かれ落ちていく石は、万有引力の法則はもちろんのこと、自分の外に「原因」があるということを思いつけずにに、「俺は自分の意志で地面に向かっているのだ」と想像するだろう、とスピノザはいっています。
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