くるくる人物伝


 H.G.ウェルズ Herbert George Wells (1866〜1946)

 第一次世界大戦中(1914〜1918)、ウェルズは世界初の「反原爆運動」を行ったが、広くは理解されなかった。なんとなれば、世界を破滅させる兵器の存在を知っていたのは、(小説の中で)それを作ったウェルズただ一人だったし、だからそんな兵器はまだ世界に存在していなかったからだ。

 それどころか、人々はまだその戦争が「世界大戦」であることすら確信がもてなかった。それどころか、それが「長い戦争」か「短い戦争」か、議論したりしていた。プルーストが「スワン家の方へ」(1913)を、デュシャンがニューヨークのアーモリーショーへ「階段を降りる花嫁NO2」(1913)を、フォードがテーラーシステム(1913)を、森永がミルクキャラメル(1913)を、エジソンがトーキーシステム(1913)を、岩波茂雄が岩波書店(1913)を、シュタイナーが人智学協会(1913)を、J.B.ワトソンが行動心理学(1914)を、ジョイスが「若き芸術家の肖像」と「ダブリン市民」(1914)を、漱石が「こころ」(1914)を、ドイツがUボート(1914)を、辰野金吾が東京駅駅舎( 1914)を、チャップリンが第一回監督主演作品(1914)を、アームストロングがフィードバック回路(1914)を、そして翌年真空管ラジオ(1915)を、カフカが「変身」(1915)を、グリフィスが「国民の創成」(1915)を、アインシュタインが一般相対性理論(1915)を、ソシュールが「一般言語学講義」(1916)を、レーニンが「帝国主義論」(1916)を、ラブクラフトが「錬金術師」(1916)を、フロイトが精神分析入門の講義(1916)を、それぞれ世に出した、そんな時代だった。

 ウェルズはたった一人「自分はなんてことをしてしまったのか」と悔恨の念にとらわれ、まだ存在さえしていない核兵器の廃絶と、世界の破滅を回避するあらゆる試みに着手した(例えば、結局は各国の思惑に骨抜きにされてしまったけれども、国際連盟のシステムもウェルズの発案だった)。

 ウェルズのその小説に強い衝撃を受け、生物学者の道を捨て核物理学者へと転身したレオ・シラードは、やがて核分裂における「連鎖反応方式」の発明を行い、アインシュタインを口説き落とし、マンハッタン計画をルーズベルトに承知させることに成功する。その小説「解放された世界」(1914)から31年後、極東の島にキノコ雲がふたつ上がり、「第二次」世界大戦の後、国際連合が創設され、……かくも皮肉に歴史は進む。「一度目の悲劇と、二度目の喜劇」としてでなく、悲劇を予感する者を喜劇として、悲劇を追い抜く者を喜劇として、悲劇がその後を追ってくる。

 トマス・モア(1478〜1535)が、カンパネラ(1568〜1639)が、サン=シモン (1675〜1755)、シャルル・フーリエ(1772〜1837)、オーウェン(1771〜1858)ら社会主義者が、ウィリアム・モリス(1834〜1896)が、エレホン=バトラー (1835〜1902)が、康有為(1858〜1927)が、すべてのユートピストが、現状の批判を行ったが、ウェルズがそんな「現状」の破滅を、つまり現状もそれに対する批判をも、何もかも消滅させる破滅を自覚した(なんとなれば、その手段は彼の手に握られていたから)、最初で最後のユートピストだった。もはやユートピストなどやってられない時代に我々の誰もがいる訳だけども(それゆえ彼が「最後のユートピスト」であるのは間違いようがない)、世界破滅の手段をその手で作り出した、そのために是が非でもユートピストとならなくてはならなかったのは、彼が最初だった。

 “H.G.ウェルズの友人アーネスト・バーガーは、その『時代と青春』という本の中で、ある日のウェルズをこう回想している。

 第二次大戦が勃発したあとの1941年、ボヘミアの百科全書家コメニウス訪英300年記念を祝うレセプションがケンブリッジ大学で開かれた。その席でわたしはH.Gに会った。彼はひじ掛け椅子にぐったり身を沈めていた。それで彼に「体の具合はどうだい?」と尋ねた。 「いや、とても悪いんだよ、バーガー」彼はそう答えた。 「そうか、で、おまえさん、いまそこで何を書いてたんだ?」 そう聞くと、彼はこう答えてメモをよこした。 「自分の墓碑銘(エピタフ)を書いてたところだ、簡単なやつだ」 見るとそれにはこう書いてあった。

《God damn you all: I told you so.》
(くそったれ、言わんこっちゃない)

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