SoWhat


0:
 物語の話をしようと思う。
 理由は、そのたわいもない物語についてずっと話がしたかったから。知らない人のための第一次近似:「たった一度も作動しなかったタイムマシンについての物語」は、198X年から8X年にかけて書かれた虚構(フィクション)である。似たような物語を、もっと以前から知っていたようにも思うし、いやそれは記憶違いであったという気もする。だからいずれ、これからする話のある部分は修正され、ある部分は取り除かれ、ある部分はきっとそのままにされるだろう。そうしたことはみんな、話し終えられた後にはじまることだ。

 簡単な「用語解説」から始めよう。「タイムマシン」とは、19世紀末、イギリスの科学者、文明史家H.G.ウェルズがその小説(フィクション)の中で登場させた虚構の機械である。それは時間を自由に(多くの場合、過去に向かって)旅行できる機能を持っている。重要なのは、そうした時間旅行が、継起的因果性の時間について行なわれるということだ。つまり時間旅行者は、「原因−結果」の鎖の上を旅する。「Aであったから、今Bである」。ならばAでなかったら、Bとは違う今があり得たのではないか、等々。

1:
 家族が終わって、物語が始まる。
 もちろんその物語は「タイムマシン」を起点としているのに違いない(それは違えようもなく「タイムマシンを巡る物語」であるから)。すべてはそのたった一回の事故(アクシデント)から始まっているのだし、物語はずっとその偶然(アクシデント)を抱え続けるという時間なのだから。
 けれどその「語り始め(開幕)」は、いつもの通り(そう「いつもの通り」だ)、「家族」がすっかり片付けられたことから始まる。唯一の肉親、「じっちゃん」の死。
 けれど「家族」の後にやってくる物語なんてどんなだろう?
 振り返れば、これまで一度だって、「物語」はなかった。両親ははなっから「転勤」でどこかへいってしまっていて作中一度も姿を表さなかったり、あるいはそろってとっくの昔に死んでしまっていたり、自分の方が家を出ていたり、とにかく「家族」が片付けられた後にやってきたのは、いつも「日常」だった。まるでそれは「血縁」だけ欠いた家族のようだった。だから「彼ら」(そうだ、「彼ら」だ。「彼ら」はいつも「家族」みたいで、一人であったことがない)は迷うことなく、帰れる場所をいつでも指し示すことができたのだ。
 彼らは「はじまりがあった」ということを欠いている。彼らの「現在への郷愁」はいつも決まってそうだ。絶えず喪い隔たりながら、でも「ずっと以前からこうしていたような気がする」と彼らは繰返し言うだろう。それが、彼らがこうして共にいる「根拠」となるのだ。

2:
 けれど物語は始まる。「この世」にいるはずのない少女が、「この世」に巻き込まれる。そして「じっちゃん」は死んでしまったけれど、なお「この世」に取り残される。そして主人公である少女がこの「家」に帰ってくる。やがて人々が集い、まき直された時間はゆっくりと進み出すだろう。きっかけは、たった一つの事故。科学者である「じっちゃん」の作っていたタイムマシン(未完成)が暴走し、時空は歪められ、あり得ない出来事を起点に、そうして物語は始まる。まき直された時間は、歪みがやがて消え去るための、つまり「この世」にいるはずのない少女が元の世界、あるべき世界に帰還するための時間。だからつまり、一人の少女の帰還から、もう一人の少女の帰還へ至るまでの時間。これがこの物語の「全長」である。物語は「長さ」を持っているだけでない。「理論」が「仮説」を持つように、「物語」は「理由」を持っているのだ。

3:
 そうしてまた「いつものように」人が集まってくる。少女のかつての級友、少女を「帰すため」の研究を続ける「じっちゃん」の助手、そして「じっちゃん」の生前からその研究を探っていたスパイたち。そうして「いつものように」、「日常」がはじまり、またしても「彼ら」は、ずっと以前からそうであったような「平衡状態」を生きる人になる。

 けれどたった2人「いつか」を覚えている者がいる。彼女たちは、今がこうしてあるその「理由」を覚えている。そのことが、「物語」が最終的に「日常」に溶け込んでいくこと、まぎれていくことを拒絶する。2人とは「こっちの世界」で生きていかなくてはならない彼女であり、そして「向こう」で生きるべき彼女である。
 「いつか」彼女は、向こうの世界に戻らなくてはならない。そこが彼女の本来いるべき世界だから。彼女たちが「いま」こうして「ここ」にいるのは、その「いつか」を迎えるためだ。
 彼女たちだけが、「日常」に「はじまりがあった」ということを知っている。だからこの「日常(ならざるもの)」が、終わらねばならないということを知っている。だから彼女だけが願わずにはいられないのだ。まるで「物語」を「外」から眺める人のように。
 けれど彼女たちはまた、「物語」が任意に終わらせることができないこと、そして永遠に終わらせぬこともできないことを、痛いくらい知るのだ。「物語」が「物語」であることを知るから、なおかつ自分たちがその内にいることを知るから、彼女は願わずにはいられないのに、だから決して願うことができない。
 彼女は「いつか」帰る。「物語」は違えようもなく終わる。けれど彼女たちは物語の終焉も永遠も、どちらも選ぶことが出来ないのだ。

4:
 この世界で、「いつか」を知るものだけが、あの事件と「いつか」を覚えているものだけが、意思を持つことができる。何かを選ぶという意思。だけどいったい何を選べるというのだろう。歴史の中にあるものは、人が歴史を作ったということを必ず知っている。それが(「日常」にでなく)「歴史の中にある」ということだから。けれど、歴史の存在を知った以上(歴史の中にあることを知った以上)、ぼくらに何ができるというのか?「何も知らされず舞台の上に立っている」ことを知った者に、自身を「物語の登場人物」として自覚した者に、いったいどんな「歴史」が作れるというのだろう?
 ぼくらは継起的因果性の中に、これ以上ないくらいしっかりと結え付けられている。例えばこういうことだ。ぼくらは、どのような虚構だって「想像」することができるだろう、けれどそれをどのように「想像」するかさえ継起的因果性の中にしっかり結え付けられている。決して終わらない、否「終わり」などはすべてその中に埋め込まれてしかあり得ない、原因−結果の編み目の中に。

5:
 「作り事」について。「作り事」が終わるのは、それが「作り事」であるからだ。そんな当たり前のことが早速取り違えられて、何かを「作り事」よばわりすることと、何かの「終わり」を宣告することが、同じになった。あげくのはてには、「作り事」ですら、「作り事」よばわりされて「終わらせられる」のだ。彼らはプレイヤーであるはずなのに、それが「ゲーム」だと呼ばれた瞬間に席を立つのだ。
 なるほど、「作り事」は(それが「作り事」である以上)、必ず「終わる」。「物語」は必ず「結末」(終わり)を持つ故に、あらかじめ「終わっている」。「区別されること」が必ず「境界」を持つように。だからといって、「作り事」が「終わり」と等置されていいわけではない。

 タイムマシン制作者が忘れていることがある。
 それは、タイムマシンを作るには時間がかかる、ということだ。いずれ完成の暁には、そんなものは帳消しになってしまうと、連中は考えているのだろうか?けれどもちろん、タイムマシン制作中の彼らは、時間の外にある訳ではない。
 別れた妻とやり直すためにタイムマシンを作り始めた男は、その完成を待たず、年老い、そして死んでしまう。
 時間旅行者ですら、時間の外にいるのではない。彼らは時間の運命をいっさい免れないどころか、一層過酷にそれに対することになる。時間旅行者は、時間を操作の対象とするが、そのためいよいよ時間の運命の内に織り込まれる。
 おそらく何かがあったのだろう。二人はそれが「原因」で別れたのだ。ちがう「原因」は、ちがう「結果」を生むだろう。タイムマシンで過去に遡れば、あるいは「原因」を差し替えることができるかもしれない。二人は別れなくてすむかもしれない。
 けれどタイム・パラドクスは、その「時」、時間旅行者が降り立つべき「時間」が、彼が対象とした「時間」ではないことを教えてくれる。あるいはもっと残酷に、この世界にあるのは(「ちがう結果」なんかでなく)「ただの結果」ばかりで、「原因」などはなっからあり得ないことを示し出す。継起的因果性の上では、「原因」は現在しない。それは「かつて〜だったからだ」と見い出されていくしかない。それは「想像的なもの(作り事)」なのだ。

7:
 タイムマシンは、回想の道具である。何故なら継起的因果性において、「過去」とは「作り事」であるから。「過去」はあらかじめ終わっている。その「結末」を僕らはかならず知っている。「「結末」を知っていること」が他ならぬ「結果=現在」なのだから。
 そしてぼくらは「結果=現在」を知らない。「過去」が「想像的なもの(作り事)」であるなら、それに結び付けられるのも必ず「想像的なもの(作り事)」にちがいないから。

 「歴史」の中にあるものの「終わり」は、ページを間を行きつ戻りつできるものの「終わり」ではない。「作り事」だと指摘できるもの、「物語のEnd(端;終わり)」をつまんでみせることのできるものは、はなっから「タイムマシン」に乗ってしまっているのだ。

 「痴話ゲンカにまきこまれて一生だいなしにされたとしたら、どーゆー気分になると思います?」(『SoWhat?』)

 「あらかじめ失われたもの」を回復するために、あの時間のロマンチストたちが握りつぶした(握りつぶそうとした)時間。彼女は、「この世」にいるはずのない少女は、「そこ」にいたのだ。

8:
 出来事(アクシデント)は、再び時間の中に(本来その通りあるべき時間の中に)かき消えていく。あり得ないはずの出来事なら、なおさらそれを「解消」することで「時間」は進んで行く。砂糖が水に溶け込むように、ゼンマイがやがて伸び切るように、砂人形が流れに見えなくなるように、次第に宇宙が冷めて行くように。
 何故、歴史(フィクション)が事実(ファクト)ばかりで、しかもあらかじめ終わった「事実=過去」ばかりで編まれるのかという理由。おかげで歴史(フィクション)は、虚構(フィクション)をその中に許さないのだ。あるいはすべては歴史(フィクション)の中で、決して虚構(フィクション)してではなく、事実(ファクト)としてしつらえられるのだ。 

9:
 そうして(他の手を借りて)、たった一度だけ作動するために「タイムマシン」は完成される。事態を元にもどすため、あり得ない歪みを消すため、つまり彼女が元いた世界へ戻るために。そしてそれは本当の機械の使い方ではない。
 タイムマシンは一度も「作動」しない。彼女たちは決して回想しない。ほとんど至福にさえ近い「日常」をやり直すために、(あの時間のロマンチストがしたように)今は完成したタイムマシンを使って「あの時=ことのはじまり」へ回帰することなど、たとえできたって彼女たちは選ばない。
 そして機械が作動する間際に(「歴史」の中で選択することができる唯一の瞬間に)、元の世界へ「帰ろう」とする彼女は言うのだ。それは物語を初めたあの事件のことでも、この世界での思い出=回想でも、ましてや「別れの言葉」でもない。

「いい?ちゃんと聞きなさいよ。私、あんたのこと忘れないからね。あんたが私のこと忘れたりしないことくらいわかってるわよ。でもそれとは関係なく、私が忘れたくないからあんたのこと忘れないのよ」

 それは、時空をねじ曲げて時間を遡ろうとする力(意志)に比べれば、あるいは歴史を丸ごと捉え返そうとする力(認識)に比べれば、取るに足らない、ほとんど力なんて呼べないような、力だ。
 けれどもそれは、歴史をつくろうとしたり理解しようとしていた時には、いつも手の中をすり抜けていっただろう。つまり回想するときにはいつでも失われたあの力なのだ。そして彼女はそれを選んだのだ。
 本当はそれが、それだけが、歴史の礎となるだろう。そのおかげで、それはいつも歴史を支えるために、歴史の重みによって、地中にめりこみ消えていく。歴史のそれぞれはそれを沈め込むことで自らが「歴史」として浮び上がるだろう。消え去るのは決して「あの頃」なんかではない。「あの頃」はいつも回想される、何かの頭をおさえて自らは浮かび上がる。
 彼女が選んだのは、歴史の犠牲になったものを回復することなんかではない。彼女は自分が消え行くたった今、自分が歴史の中にあること・あり続けることでなく/そして歴史の中からいなくなる・消し去られることでなく、そいつを選んだのだ。

          わかつきめぐみ『SoWhat?(1)〜(6)』(白泉社)
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