プロトリテラ:「文学」の出自

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 プロトリテラ(前文学史)
  第1回 「文学」の出自
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 18世紀半ばまで(おそらくはその世紀末まで)、literatureは「作る」ものではなく、「持つ」ものと見なされていた。たとえば英語のliteratureは14世紀にフランス語から、「上品な教養」を意味する語として「輸入」された。その元になったラテン語literaturaにも同様の意味があった。当時の「文学者 a man of literature」は、「博学な人」を意味し、そしてその「教養」や「博識」は「書くこと」と「書かれたもの」に、今日の英語でいえばliteracy(読み書き能力)と呼ばれるものに存していた。派生語がこのことを傍証してくれる。いまでは廃語となったiliteratureという語は、literatureの否定、打ち消しを意味する語だろうと容易に推測されるが、実際には単に「文盲」を意味した。また、「博学な人」はまた、a man of litters(文字の人)とも呼ばれた。

 語源詮索はさらにさかのぼれる。文法grammarという語がギリシャ語の文字grammaに由来するように、litteraturaという語もまた、ラテン語の文字litteraから派生したものだった。事実、クインティリアヌス(ローマの修辞学者・教育家 35頃〜100頃)は、この語を「文法」の訳語として採用している。
 クインティリアヌスはその著作「Institutio oratoria弁論家の教育について」で、「文法litteratura」に、「正しい話し方methodice」(書き方も付随する)だけでなく、「詩人達の注釈」をも含めている。「弁論家」教育を全人的教育と考えていたクインティリアヌスは、文法と修辞学を含めたそのカリキュラムに改めて、先人たち、つまり著作家(author)の書いたものに習うことを導入した。学ぶべき「正しい言葉」とは、先人たちの言葉である。ホメロスにはじまるギリシャの詩人、そしてクインティリアヌスは、ウェルギリウスもその中に数えている(近年、この詩人が学校でも学ばれるようになったことを、クインティリアヌスは歓びをもって記している)。我々なら「文学作品」と考えるものを読むことが教育のカリキュラムの一環になり、それらが教科書に登場する。逆に言えば、「教科書」とは、教育目的でもってセレクションされた古代作家のアンソロジーに他ならない。「厳格」な教育者だったクインティリアヌスは、清純な生徒たちに説明したくない箇所を含むホラティウスを選ばないが、喜劇は推奨する。アリストテレスが『弁論術』でいうように、様々な性格と感情を描写するからだ。それは弁論術=修辞学の訓練に役立つ。クインティリアヌスのカリキュラムは中世を通じて圧倒的な影響を与えた(それどころか彼は、ルネサンス時代の教育家たちによって、脱=中世を図るために召還されたひとりだった)。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』は、修道院で喜劇を読むと殺されるというお話だが、中世でもっともよく読まれた教材用著作家はテレンティウス(ローマの喜劇作家 前185〜前159)である。
 そして「自由七科liberal arts」は自由人のための教育課程として、つまり「奴隷階級」でない、労働に直接たずさわらない階級の学ぶべきものとして設置された。「自由七科liberal arts」の第一位、二位をしめる「文法」「修辞学」(その境はしばしば移動し、曖昧にされた)、つまり「読み書き」は実利的な知としてではなく、まさに「教養」そのものとして導入されたのである。

 詩と詩学は、時には「文法」の、時には「修辞学」の対象とされ、長らくそれらの中に包括された。実態は、詩文を対象とする独自の学問、方法の欠如と、しかし教材としての「詩文」の必要性が、このような「受け持ち」を要求した。実際、ローマ帝政期からフランス革命まで、(我々ならそう呼ぶだろう)「文学作品」はすべて学校修辞学に基づいている。「読み書き」を学ぶことは、学校修辞学を学ぶことであり、それは古代からもたらされる「著作家」の書いたものを学ぶことに他ならなかった。人々は書き言葉(ラテン語)を手にすると同時に、古代からの「文学的遺産」を手にした。その二つは同じことであり、片方だけを投げ捨てることは適わなかった。
 12、3世紀の俗語(自国語)文学の興隆も、けっしてこの「伝統」の切断を意味しなかった。この時代にラテン語とラテン文学は、アイスランドからパレスチナまで広がっていた。教養のあるものもないものも誰もが、二つの言葉があることを知っていた。ダンテもペトラルカもボッカチオも、ラテン語と俗語の両方で書いた。加えて俗語で書かれた『神曲』の冒頭では、古代の詩人たち(すなわち教材用著作家たち)がダンテを迎えてくれる。案内人は言うまでもなく詩人の父ウェルギリウスである。
 言い回し(フレーズ)や題材(モチーフ)、技法上の様式は、古代の著作家から汲み取られ、あるいはもっと新しい作品から孫引き・曾孫引きされ、俗語(自国語)文学を、そして俗語(自国語)そのものを書き得るものに鍛え上げるのに用いられた。おそらくは意識的でない先行作品への参照や無自覚な剽窃、むしろ「作用」とでも言った方がよいものが、「文学史」のいずこにも数多見られる一因がここにある。15、6世紀になっても、いわゆる「八家文 Auctores octo」が生徒に教材として与えられた。

 「詩学」が、文法や修辞学から取り戻される時がやがてやってくる。「中世の権威」アリストテレスは、決してダイレクトにヨーロッパにもたらされた訳ではなかった。1度目は「自由七科liberal arts」の精密化を図ろうとしたボエティウスによって論理学が(彼は、アリストテレスの論理学Organonを、自由七科のDialecticaに移入した)、2度目はアラビア人から自然学[12世紀]が、そして15世紀末から16世紀にかけて、千年以上の忘却を退けて、イタリア半島に彼の「詩学」が現れる。
 詩や古代の著作家の書いたものが、学校文法や学校修辞学によって「保護」あるいは「拘禁」されている間、「文学作品」全般を指す用語は存在しなかった。たとえば詩文はそれぞれの技法によって、あるいは「一種の雄弁」と考えられて、そう呼ばれていた(それらは修辞学=弁論術の下にあった)。poesis、poema、poethica、poetaなどの語は中世では現れることは少ない。それどころか「詩作する」という言葉は、中世初期には存在さえしなかった。詩は、metrica facundia(韻律による雄弁)、metrica dicta(韻律による叙述・言説)などとよばれ、あるいは、versibus digerere(韻文によって叙述する)、lyrico pede boare(叙情詩の韻脚で叫ぶ)ことがすなわち「詩作する」ことにあたっていた。我々が「詩人」と呼ぶところの者は古代にも確かにいたが、「詩(poetry,Poesie,……)」という言葉はずっと後にできたものである。
 では、アリストテレスの著作は、何故「詩学」なる名を冠しているのか。今「詩学」と呼んでいるテクストは、叙事詩(つまりホメロス)とギリシャ悲劇について書かれたもので(全体の半分を占めていた喜劇についての部分は、失われたとされている)、ギリシャ語で「περι ποιητικησ」(ポイエーティケーについて)という原題を持ち、つまり「ποιησιs(ポイエーシス)」を主題としている。ヘロドトスは、ποιημα(ポイエーマ)を金細工について、ποιησιs(ポイエーシス)を葡萄酒の醸造について用いている。プラトンが提供する証言を聞こう。彼は『饗宴』のなかで、恋の奥義を知る巫女ディオティマに、こう言わせている。「ποιησιs(ポイエーシス)は、あなたも知っているように、広い意味の言葉です。言うまでもありませんが、存在していないものから存在しているものへと移る場合、その原因となるものは、すべてποιησιsです。したがって、およそ技術のなしとげる仕事はすべてποιησιsであり、それに従事する者はποιητηs(ポイエーテース)です」。
 ディオティマ(すなわちプラトン)は、こうつけ加える。「技術のなしとげる仕事」に従事する者すべてが、ποιητηs(ポイエーテース)と呼ばれる訳ではない。「つまり、ποιησιs(ポイエーシス)全体のうちから一部分、つまり音楽と韻律に関する部分だけが区分され、それが全体の名前で呼ばれているのです。そして、これだけがποιησιs(ポイエーシス)と呼ばれ、この部分にたずさわる人たちだけが、ποιητηs(ポイエーテース)と呼ばれるのです」。
 ποιημα(ポイエーマ;「つくられたもの」)が「詩」(poesis、poema、poethica、poeta)の語源であり、ποιητηs(ポイエーテース;「つくる人」)が「詩人」の語源であることは言うまでもない。ποιησιs(ポイエーシス)の原義が「つくること」であれば、それに「創作」という訳語をあてることも可能だろうか。少なくともποιησιsをcreation[独 Scho"pfung,仏cre'ation]と訳すことは、異教的な思考(つまりギリシャ的な考え方)に、ユダヤ・キリスト教的な教説をもちこんでいる。それは「神学的な比喩」である。ποιητηs(ポイエーテース)は創造しない。彼ら(ποιηται詩人達;複数形)の作り出す「詩」は神的なものとみなされたが、それは詩人の独創であるからでなく、ある超個人的な権威によってである。

οι` ποιηται θεραπευουσι ταs Μουσαs.(詩人たちはミューズ[ムーサ]に仕える)

 中世の詩人たちにとって、この詩神は、トポス(決まり文句)になった。あるいはキリスト教詩人にとって、この詩神は異教の神であり、常に教会からの攻撃にさらされた(逆に言えば、ずっと無視できぬほど力を持っていた)。教会は宗教裁判と異端迫害によって「教会の敵」をことごとくせん滅したが、ただひとつだけそうできないものがあった。fomousos poetas y oradores(高名な詩人や弁論家)、すなわちムーサに守られた者たちである。彼らは孤立していなかった。たとえば叙事詩はホメロスやウェルギリウス以来受け継がれたものであり、そして19世紀に入るまで、叙事詩を持たない世紀はひとつもなかった。キリスト教叙事詩は聖書と同じくらい、ホメロスたちから多くを借りていた。これはキリスト教賛美歌より古い歴史と広がりを持っていた。ウェルギリウスは中世の英雄叙事詩の手本となり、俗語文学が花開いた12〜14世紀にはまた新しいラテン叙事詩も開花した。16、17世紀にはアリストテレスの理論(もちろんあの『詩学』だ)が理論的基礎を、あるいは混乱を与えた。その勝利は13世紀以来の彼の形而上学・自然学の勝利、すなわちスコラ哲学の隆盛にも匹敵した。言語活動なしですむ(あるいは、なしですませられると信じる)、あの《明証》という新しい価値の興隆(プロティスタンティズムの個人的明証、デカルト哲学における理性的明証、経験論における感覚的明証)が、修辞学の伝統を食い潰そうとしていた時代にあって、アリストテレスは新しい「美学」のリソースになる。

 「詩(poetry,Poesie,……)」は、ずっと後になっても、必ずしも「韻文で書かれたもの」を意味しなかった。16世紀末にも、その意味は基本的にはプラトンの定義を踏襲している。「poetry:作り出す技術。 とくに詩的に語り、書く能力をあらわす」。同時代、詩論「詩の弁護」を書いたフィリップ・シドニー(1554〜1586)は、「韻文は装飾でしかなく、詩の根拠にならない。なぜなら、一度も韻文で書いたことのない詩人は多くいるからである」と書いている。
 このことは、literatureが「書くこと」そして「書かれたもの」全般を巡って用いられ(「教養」や「博学」)、現在のような意味の限定を被る以前には、poetryが(現在でいう)「文学作品」全体を指す役目を果たしていた時代があったことを示唆している。18世紀半ばから一つの革命がイギリスに始まる。古代の伝統の束縛が破られ、ミューズ神の声にかわって、「諸国民の声(Stimmen der Vo"lker)」が響き出す。啓蒙主義とロマン主義がヨーロッパを駆けめぐる。ドイツの啓蒙主義者、最初の教養小説を書いたというヴィーラント(1733〜1813)は、「冷静に、独力で、ムーサイ(ミューズ達)の熱狂なしに」書こうと著作の最初に宣言する。
 「我々が知る意味での、literature文学の登場は、結局18世紀末〜19世紀初頭を待たなければならない。「ロマン主義」の下で、「詩poetry」と「文学literature」の領分が交差する。言語芸術における散文形式(つまり小説)の台頭、「独創的」な、つまり作家の精神だけを起源にする(とされる)imaginative writing「虚構」の隆盛が、poetryを韻文へ追い払い、historyを実証科学の荒野へと駆逐する。かつてほとんどすべての学芸・教養を意味したliteratureは、その結果著しく限定される。これと並行して、本来literatureが担っていた意味をliteraryが受け継ぐ。もっともこうした移行は、短期間に行われた訳ではないし、完全に遂行された訳でもない。
「文芸」あるいは「文学」を担うことばが、poetryからliteratureへ移行する時期は、「文芸」の中で従来重要な位置を占めていた「口演もの」、すなわち朗読や演劇が後退し、「文学」における「書物」の独占が始まり出すのと同じくしている。poetryにはまだ「(詩的に)語る能力」という意味があった。ミューズはまた音楽の神でもあったこと、musicは語源からして「ミューズに属する術」であったことが思い出される。ミューズの追放は、伝統からの離脱・伝統の喪失のみならず、「文学」における「上演」の追放でもあった。この後、「文学」literatureは(その語源を想起してか)、文字と書物に幽閉されることになる。
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