「マディソン郡の橋」

「マディソン郡の橋」という映画のこと

 それじゃ、映画のことを書きます。
 クリント・イーストウッドという人が監督した、出演もした「マディソン郡の橋」という映画です。メリル・ストリープという女優さんも出てます。すごい映画です。メリル・ストリープがバカに見えるなんて、すごい映画です。多分、本当の恋愛映画です。

 メリル・ストリープという人は、美人で頑丈そうで頭よさげな女優さんですが、今回の役どころは、「田舎の普通の主婦」であって、ことさら美人であるわけでも、頭よさげであるわけでも、イタリアから来て元教師なんていう女の人ですから、田舎のおばさんといってもとくに頑丈というタイプでもありません。メリル・ストリープ、ひょっとしたら、この役、向いてないのかもしれません。なんとなれば、この「主婦」は、この映画の主役であって、なおかつ「我慢する」役だからです。頭のいい人は我慢なんてしません。我慢せずに、「工夫」(笑)してしまいます。あるいは「判断」してさっさとあきらめるか。でもそれじゃあ「恋愛」にならないのです。

 この「主婦」の人は、恋した男の人についていくことを、家庭を捨て町を捨てついていくことを拒みます。ついていけば、やがて恋の熱情がさめたとき、今は恋いこがれてる相手の人を、「平穏な生活の破壊者」として恨むことになるだろう。だから、私は、ここにとどまって、ずっとあなたを愛していく、と彼女は決心するのです。正しい洞察と立派な決心です。泣かせます。ですが、このように結論したのは、メリル・ストリープがこれまで演じてきた立派でしっかりものの女性でなく(「彼女」たちなら、もっとやすやすと、正しい洞察(判断)を通じて、同じ結論にたどり着いたはずです)、田舎町に住む平凡な主婦の人なのです。彼女は彼に着いていきたいのです。たった今までその準備をしていて、その決心をしていたのです。そして結論は同じでも、それは正しい洞察(判断)などでなく、彼女はただ「我慢する」方を選んだのです。その時、彼女は、美人でも頭よさげでもなく、平凡で愚昧で、そして恋し決心するものだけがもつ立派さを備えて見えます。なんとなれば、恋するものはその瞬間、美人でも頭よさげでもなく、平凡で愚昧であるに決まっているのですから。

 この映画を撮ったクリント・イーストウッドは、もちろんバカな人です。いつもすばらしくバカな映画を(縮めていうと「すばらしい映画」ですが)を撮ります。メリル・ストリープをバカに撮るなんて、やっぱりさすがのバカぶりです。さらに今回もまた、バカな役柄で出演もしています。
 彼は、主婦の相手役の、カメラマンの役です。この男の人は、いい人ですが、どうやらバカのようです。主婦の人が言った、あんなにいいセリフも、どうやらあまりよくわからないみたいです(映画の中で、せっかくの「名言」を理解しないこと、理解しない人が、どんな役に立つのかは、別稿の「フェリーニ「道」のこと」をごらんください)。このイーストウッド演じる「おバカなカメラマン」が、ふいにこの映画の「おバカな映画監督」と、ふっと重なる場面があります。あんまり無邪気で、おそろしく感動的なシーンです。この映画、もう映画だけで(ストーリー抜きでも)感動的なところが山みたいにあるのですが、ひとつだけとりあげて、この稿を終わりたいとおもいます。

 メリル・ストリープ演じる彼女が、土手を上り、ふたたび「幌つき橋」のところまで上ってきます。彼女の視線は、橋の向こうに置き去りにされた三脚を捕らえます。この持ち主、さっきまで、橋の上からその姿を追っていたあのカメラマンはどこへいったのでしょう。ぱっと現れたクリント・イーストウッド演じるカメラマンは、カメラを構え、ふざけて彼女をモデルみたいに撮影し始めます。彼女も口元に手を当てたり、笑ってそれに応じます。
 その時、カメラは手持ちになり、まるで恋人が8ミリか何かで自分の彼女相手にふざけてフィルムを回すみたいに、うれしげに笑うメリル・ストリープを追いかけるのです。もちろん、この視線(レンズごしの視線)は、彼女の4日間の恋人の、カメラマンのものです。そして同時に、女優を追う監督のものであることもいうまでもありません(それにしては、なんと無邪気なことでしょう。まるで始めて映画を撮るのに、かわいい女の子を捜してきて、なんとか口説き落として、ファインダーに彼女を覗くうちに、映画の内容なんかそっちのけで、その姿を追いかけてしまう男の子(映画を撮り終えた後、彼女に告白して、きっと振られるのです)が撮った絵です)。その時、カメラは手持ちになり、まるで恋人が8ミリか何かで自分の彼女相手にふざけてフィルムを回すみたいに、うれしげに笑う彼女を追いかけるのです。 inserted by FC2 system