LA STRADA

フェリーニ「道」のこと


SIDE A

 ザンパノは泣く。
 彼女が死んで気付いたからだ。けれど彼は、自分がなんで泣いているか、わからないだろう。自分がどんなにして「わかってない」まま泣くはめにいたったのかは覚えてる、自分にはたった今「わからない」ものがあることも分かってる。そうして、そんな風に「わからない」としか、わかりようのないものがあるということを思い知りつつも、決してそれを理解しないまま(だってそんなこと分かる訳にはいかないじゃないか)、彼は泣くのだろう。
 「わかる」ことは、ただごとじゃない。たとえば、たかだか人の気持ちさえ、めったに分からぬように人ができているのは、分かったりしたら、もう、ただ「わかってる」だけではすまないからだ。それはブレーカーみたいなものだ。「わかる」ことは容易くない。でも、ずっとずっと大変なのは「わかった」後の方なのだ。
 それでも人は、ザンパノがそうであったように、「わかる」ことを回避することはできない。どんなに「わからずや」でも、どんなにわかりたくなくても、分からされてしまう瞬間がある。それは逃れようもなく人を襲うだろう。だから、ザンパノは泣く。


SIDE B

 ジェルソミーナは泣かない。いつも泣き出しそうな顔でザンパノを見上げているのに。そして木偶みたいに、毎日泣き続けていくのに。
 語の本当の意味でなら、彼女は天使にも等しかっただろう。だから彼女は何一つ理解しない。わからない。
 たとえば、若い綱渡り芸人のあのセリフ「道ばたの石ころにだって意味がある」(ちゃんとおぼえてないけど)。彼はきっと、普段からこんなことを考えていた訳ではないのだろう。彼女に会って、彼女に何か言ってあげたくて、それでこんな言葉を言うことができたのだ。だから、本当は、彼女だけが、この言葉を受け取る資格がある。こんな言葉を必要としているのは、もっとたくさんいるのだけれど。
 だけど、彼女は「わからない」。「わからない人」は「受け取らない人」だ。彼女が受け取らないおかげで、その言葉はもっと他の人のための言葉となるだろう。そして天使が何かを伝え運ぶとしたら、そんな風に伝え運ぶのだ。 inserted by FC2 system