結合通信(2回生配当) 1:

 恋愛論は、学園一かったるい授業。原因は主に教授法と題材(モチーフ)にあります。というのは、私たちは主に「古典」によってそれを学ぶからです。
 たとえば、プラトンというひどく昔の人によれば、男女の愛は、男同士、とりわけ少年同士の愛よりもごくつまらないものだそうです(これは全然私の考えじゃありません、そのプラトンが言ってるんです)。理由は(プラトンによれば)、男同士はできないけれど、男女は「結婚」できるからです。プラトンにとっては「結婚」は「ポリス(都市国家)が要請する子孫生産の手段」でした。いずれにしろ男女の愛が、少年同士の愛ほどに高まるのは、「結婚」の枠外にある場合だけです。
 キリスト教は、「愛の宗教」を自認するくせに(神様ってのはつまるところ愛なんです。神父様が教えてくれました)、愛についてほとんどなにも教えるところがありません。おかげで教父たちの愛の程度の低さは歴史上の誰にもひけを取らないほどです。ある有名な教父は「愛せ、しからば何をするも可なり」と言ってます。愛の掟(タブー)も、(大抵の宗教にはある)性の典礼(マニュアル)も、「今週の努力目標」も何にもありません。何の役にも立ちません。
 愛の作法がないかわりに、キリスト教はあの「結婚」を「大いなる秘儀」=秘蹟(サクラメント)ということにしました。もちろん、「結婚」は「愛」と関係ないどころか、かえってそれを損なうものなので、やがてキリスト教徒の中にも「結婚」に反対する人達が現れました。もっとも彼らは禁欲主義者で、禁欲のためにまず「結婚」から攻撃したのです。キリスト教の「結婚」は、(サクラメントで、恩恵を受ける手段・方法だから)きちんと定められた手続きを踏むものなので、取り止めたりすることができません。だから相手と別れるには、相手を毒殺するか、「結婚からの退避場所」へ逃げ込むかしかありませんでした。禁欲主義者は「結婚からの退避場所」にと、女子修道院をつくりました。そこにお妃に逃げ込まれたある王様は頭に来て、高級娼婦をあつめて「反修道院」をつくりました。王様は徹底していて、賛美歌をもじって春歌を作り、それを「反修道院」の儀式で歌わせました。「ムニャムニャ私を救ってくれるのは、(神様なんかじゃなくて)恋しいあなただけですトカナントカ」。こうやって「愛の歌(詩)」ができました(別の一説には、アラビア(の異端派)からヨーロッパに輸入されたものだともいいます)。
 どっちにしろ「愛は12世紀の発明である」のだそうです。こうして恋愛(実は「愛の歌(詩)」)はまたたくまにブームになり、それにかぶれた騎士たちはもっとたくさん修道院を作るように要求します。禁欲主義者が始めたので、「恋愛」は「できない」ことが大前提になったのでした。修道院に入ってる相手はもう「できない」ので、恋愛の対象にもってこいなのです。素性が素性だけに、「恋愛」はいっつも(しかも好き好んで)「困難」と連れ添うことになりました。
 とにかく「愛」は、文学の題材となったばかりでなく(ほんとは「愛」と「愛の歌(詩)」という文学とは分けることなんてできないのだけれど)、道徳や人生観に骨と命を与え、さらに神秘主義には言葉を与え、戦争には形式的規則を提供しました。(少なくともヨーロッパでは)同時代の戦争様式と恋愛様式は、「中世の一騎討ち戦と宮廷風恋愛」のペアから「ナポレオンの国民戦争とロマン主義的情熱愛」、そして近年の全面熱核戦争に至るまで厳密に対応しています。
  
 それはそうと、「恋愛」の永遠のライバルだった「結婚」はどうなったのでしょう?というのを今日の授業でやりました。
 当初登場したばかりのロマン主義は、市民道徳(ブルジョア道徳)と敵対関係にありましたが、そのうちに(ここらへん、とても細かい話と年代期があったのですが、よくわかりませんでした。割愛)、薄まったロマン主義は、市民社会と結託することになります。つまりかつて決して両立しなかった「情熱」と「結婚」の融合です。その意味で、近代社会(これももっと細かい言い方だった)は比類のない社会になりました。つまりここに生じたのが「愛ある結婚」の誕生です(キリスト教はようやく2000年来の悲願、結婚で愛を取り押さえることを達成したのです)。その自然な帰結として一夫一婦制だけが公認され、もっと大事なことは、プラトンやキリスト教異端派が問題にした「結婚」の経済的および性的側面が隠蔽されることになりました(このことが逆にユダヤ人の二人の思想家、マルクスとフロイトの台頭を許してしまったのです)。
 性愛と愛が今のように親しい関係となったのはつまり「愛ある性愛」が台頭してきたのは、この「愛ある結婚」という概念を通してです(それまで性的奔放さは、愛とはもっと屈折した関係にありました)。今日では、愛と性愛は「結婚」を抜きにして結び付いています。それは「愛ある結婚」が、結婚の秘儀的側面(2つの家系、2つの部族、2つの社会的地位を結び付けるという側面)を、つまり「結婚的なもの」を抑圧していることからして当然の帰結でした。現在アメリカのある女性生物学者は、「恋愛活動」を、より優れた子孫を残そうとするDNAの命令だと位置付けました。「恋愛」(アメリカにおいてはそれは結婚に対する浮気を意味します)は、より優れた遺伝子を持つ異性(あるいは異性の持つ遺伝子)を獲得するためになされる行動であり、つまりそのことはより優れた遺伝子の再生産を目的に遺伝子にプログラムされているというのです。この現状追認型の社会生物学者は、経済的および性的側面についても、「結婚」に対する「恋愛」の優位性を「科学の立場」から擁護しました。このような考えに抗して、「性欲」以外の何かに「愛」のよりどころを求めようとすれば、今やノイローゼあるいは常軌を逸した政治思想と「診断」されて、そして国家によって統制された(つまり健康保険がきくのです)化学療法によって治療されてしまいます。
 さて恋愛論では、過去や現代だけではなく、未来の恋愛についても「考察」します。ここでも題材(モチーフ)は「古典」ですが。昔の学者マルサスによれば、人類の人口は幾何級数的に増大します。現在の30年で倍増するペースでなら、200数十年で、全世界人口は約7000億人に達し(これは全地表で10平方メートルあたり一人という人口密度です)、さらに数十年で1平方メートルあたり一人(ひそひそ話どころか少し離れたところへ誰かを探しに行くことだってできません)、さらに数十年で、世界中の人々が複数の異性と同性と、いつもぴったり肌を触れ合わせていなくてはならなくなるでしょう(「性愛」と「愛」と「結婚」はどのようになるでしょうか?それが次回の検討課題)。

草々。






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