くるくる人物伝



エピクロス Epikouros (342/1B.C.-271/70B.C.)

 エピクロスは、プラトンのおよそ100年後、ギリシャ文明がとことん瓦解
した最中に登場した。理想国家論を書いたプラトンとちがって、彼はもうどん
な社会の集団的救済策も提示しなかった。けれども彼は絶望も諦念も勧めな
かった。そして、後世の人がいう「繊細さを欠くがために、地上に幸福を求め
ることができる」人間であったために、迷える個々の魂の救いを彼岸に求める
こともしなかった。

 エピクロスは、此岸にだろうが彼岸にだろうが、高い精神の王国を打ち立て
ようとする人々にとって、大顰蹙なことを言ってのける。「すべての善のはじ
めと根本は、胃袋の快楽である」。これが彼の倫理学である。多分、放縦をほ
しいままにするエピキュリアンと呼ばれるものは、こんなところに由来するの
だろう(「精神の高さ」をもって身体を蔑む思想が攻撃するはこんなところ
だ)。

 けれども俗に言う「快楽主義者」に対して、この「胃の哲学者」はあらかじ
め釘を指す。「飽くことを知らないのは、多くの人々はそう言うのが、実は胃
袋なのではない。かえって、胃袋についての誤った臆見、すなわち、胃袋はこ
れを満たすのに際限なく多くの量を必要とするという臆見こそが、「飽くこ
と」を知らないのだ」。「身」を滅ぼすまでにどん欲であるのは、「身」それ
自身でなく、「魂」の方だ。だから「胃の哲学者」は、魂のあり方、自身の倫
理学を説く。

 「哲学するふりをすべきではなく、本当に哲学をなすべきである。我々がも
とめるのは健康に見えることでなく、本当の健康だから」。

 長年、胃と膀胱の病に犯され、日に2度も吐き(それは論敵がいうような過
食のためではない)、最後は膀胱結石で命を落とした哲学者の、健康について
の英知は単純かつ「ささやか」だ。死を、苦痛を恐れないこと、ありもしない
ものに引きずり回され眩暈のうちに方向を失い悲惨に突き進まないこと。

 人を恐怖に結わえ付け、不安と蒙昧のうちに閉じこめようとするものがふた
つある。

 一つは死の恐怖、もうひとつは神の恐怖だ。「悪をなしてはならない。なせ
ば神によって罰せられる」という怯えを、人は道徳や倫理と取り違えている。
エピクロスは後世(とくにキリスト者によって)非難されたようには、無神論
者ではない。彼は神を信じていた。彼が信じることができず、また信じるに値
しないと思ったのは、神がわれわれに干渉し、害を加え得るといったことだ。

「神々はまったくわれわれを必要としない。そして我々も善行で神々の恩寵を
つかむことはできない」。

 来世の罰や報いにいたっては、明らかに空想に過ぎない。不幸も幸福も、報
いや罰とは関係がない、すべてはこの世の事どもによって起こり、引き起こさ
れていく。死については、これはもはやこの世のことではない。死ねば、肉体
は滅び、感覚も消滅する。感覚の消えたところに、なにものもない。あるのは
いつも、空想に結びついた恐怖、死についての、いま生きている者の思惟や願
望だけだ。

 エピクロスは、謂れのない恐怖を不幸の原因として見極めることを、そして
それを捨てる術を教える。そうして不幸をとりのぞこくことを述べる。それだ
けだ。彼の哲学が迎えることのできる幸福は、その英知にふさわしくささやか
(A SMALL, GOOD THING)なものだろう。

 けれどそれは、時代の絶望のなかで、「生きる手段」を求めることに夢中な
あまりけっして「生きていない」人々に対して、差し出すことのできる彼のせ
いいっぱいだった。エピクロスは、世の悲惨も、自らの痛みも決して忘れな
い。けれどそのうえで「恐怖と苦痛を除く術」を述べようという、彼の倫理
は、それでも人は歓びを得ることができるし、そのために生まれたのだ、と言
うことだった。

 「われわれは、同時に、笑ったり、哲学を研究したり、家事をとったり、そ
の他さまざまな営みをしなければならない」
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