悪い子の文章読本


1.いやな奴になる。


 文章を書いてる人の内、5人に3人がいやな奴、あとの2人がとてもいやな奴です。だから、文章を書くにはまず「いやな奴」になるべきです。「いやな奴」になるとどんなよいことがあるのでしょうか。一つは、ネタに事欠かないことです。人の悪口、揚げ足取り、ようは誰か(何か)を捕まえて批判をすればいいのです。でたらめ並べて悦に入ってればいいのです。マスターベーションかいて自分だけよがっていればよいのです。他人なんて関係ないない。更には、改竄、盗作、瓢窃、思いのまま(著作権なんてぶっちぎり)。「いやな奴」なら良心に咎めることもありません。「いやな奴」は無敵です。どんなタブーや噴飯ものも「いやな奴」はものともしません。
 「いやな奴」はまた最初から自己懐疑というものから解放されています。これは文章を書くとき(とりわけ速く書くとき)とても有利です。考える時間を大幅に短縮できます。「いやな奴」には、書いていいことと書いてはいけないことの区別は存在しません。何をしてもいいし何を書いてもいいのです。「これは書いてもいいのだろうか」ということで多くの時間を費やしてる文章書きには羨ましい限りでしょう(そんな暇があるなら、少しは本でも読んで「勉強」すればいいのです)。当然、自己主張の恥ずかしさなどありません。恥ずかしい自己主張も思いのまま。日本では、自己主張や意志表示をするのはいかがわしいこととされていますが(実際いかがわしい自己主張や意志表示ばかりで嫌になりますが)、そんなものに負ける「いやな奴」ではないのです。爪がいつも汚れていようが、金のネックレスをしていようが、文章書きは平気です。
 「いやな奴」の利点を一言で言うと、いけしゃあしゃあと「自由」であることでしょう。ものを書くのに自由は大切です。ほんと、自由は良いぞお。

2.お金持ちになる


 ラディカルというほどでもない普通の貧乏な家庭では、「ぜいたくしなければ充分食べて行けるね」などとささやかな幸せを味がなくなるまで噛みしめたものですが、文章を書くと言うのははっきり言ってとても《ぜいたく》です。
 日本では、昔からよく「詩を作るより田を作れ」などと言われてきました。文章なんか書いてる場合じゃないのです。
 書くためには、ですからそうしたぜいたくを許す基盤といったものが必要です。ありていに言えばお金moneyです。文章を書くためにはまずお金持ちになりなさい。できたら、おおらかなお金持ちになりなさい。そしたら私におごってあげなさい。お金持ちになるためには現在いくつかの方法が知られています。一番簡単なのはお金持ちに産まれることです。しかし油断してはいけません。ソウゾクゼイやなんたらかんたら、日本の税制はややこしくただではお金持ちを続けることはできません。会社組織にしたり、節税(脱税)に気を使ったり、ダミー会社やかくれ法人作りなんかで、あまりに忙しくて文章なんか書いていられないでしょう。ぜいたくはお金とともに暇でもって支えられていることを忘れてはなりません。
 しかし最初からお金持ちに産まれるというのは、誰にもできるものではありません。そこで「お金持ちになる」ために「イベコボの法則」というものが知られています。ここでいう「イベコボ」とは、いうまでもなく「医者」「弁護士」「公務員」「僧侶(ボウズ)」のことであります。しかしここでも例外はあります。過疎地の医者はもちろん、都会でも勤務医の悲惨な生活は広く知られています。弁護士になった途端、拉致されるかもしれません。また「監督官庁以外は人(公務員)に有ず」と言ったことも言う人がいますから地方の下級公務員の生活も推して知るべしというところでしょう。あと残るのは僧侶ですが、「ファンシィ・ダンス」を見ても分かるように、あの世界も上下関係が厳しくてほとんど体育系です。ジャージをはいて文章なんか書けません。おまけに家元制度みたいなもので、そういう家に生まれたなら兎も角、ヨガ道場のように明日からいきなり始めるという訳にもいきません。好事魔多しとはこういうことをいうのでしょうか。

3.実践篇−批評文を書く


 とりあえず「文章の心得」が終わったところで、実践篇へ進みましょう。まずは批評文の書き方です。
 批評文と言うのは、ここでは「他人様が書いたものに対して何やら書いた文のこと」を言います。
 さて、批評文で難しいのは、本当のことを書いただけではどうにもならない、ということです。これは他の文でも同じですが、批評文ではとりわけ本当のことを書こうとする人が多いので、あえて述べるのです。
 本当の事を書くと(書きすぎると)嫌われるという意見がありますが、これは正確ではありません。本当のところをいうと、そうやって嫌われる人は、「本当のこと」だけでなく「余計なこと」を書いたりしたりしているのです。たとえば、頭の悪い人が「バカ」であるのは本当のことですが、それをわざわざ当人に向かって言ってあげるのは余計なことです。その人は本当に「バカ」なのかもしれませんが、それはそれでその人なりの事情があるのです。もう少しわかりやすい例を出すと、他人様の赤ん坊を見ていきなり「あなたのお子さんはみっともない顔をしていますね」と言うのは、たとえ事実を語っているにせよ、大変失礼です。子供の頃、耳にしたりあるいは口にしたりした言葉で「アホいうもんがアホじゃ」というのがあります。これは、この言葉を口にした者も、相手を「アホ」よばわりしているのですから、「『アホいうもんがアホじゃ』いうもんがアホじゃ」ということになります。さらに、そう口にした者も、相手を「アホ」よばわりしているのですから、(以下同様)……。しかしこの無限の入れ子は、実はひとつの錯誤から成り立っています。もうお気付きでしょうが、「相手をアホと言う者」は決してアホではありません、ただ失礼な奴なのです。
 批評文はおもしろくないといけません。人の書いたものについてあれこれ言うのですから、それだけで嫌がられる可能性もかなり大きいからです。ですが、おもしろいものを書きさえすれば、少しくらいいやな奴でも大丈夫。あとはこっそり怪我をした渡り鳥なんか助けてやれば、「あの人、批評文なんか書いてるし、無口で何考えてるかわからなくて気味悪かったけど、ほんとは心のやさしい人なんだ」と、周りが勝手に勘違いしてくれます。
 それが何か他の文について書かれたものであるなら(これは批評文の我々の定義でした)、元の文よりは少なくともおもしろくないといけません。ところが「つまらない文」については誰もあまり語ったり論じたりせず、「おもしろい文」についてみんな書きたがることが多いのですから、批評文は最初から苦しい戦いを強いられます。
 たとえば、つまらない批評文は、思いのたけを述べるのにせいいっぱいで、サービスと言うものを忘れがちです。これでは誰も読んでくれません。ウッフンとかハイホーとか、差し挟めというのではありません。文章は残ります。何年か後には、14歳になったあなたの娘さんがあなたの書いたものを読むかも知れないのです。サービスというより、気遣いといったものかもしれません。元の文があったということさえ忘れている批評文も多いのです。つまらない批評文は無効です。ハイホー。元の文を嫉妬させるくらいには、おもしろくなくてはいけません。後から来て、人の尻馬に乗って好き勝手言おうというのですから、これくらい当然です。
 でもそんな芸もない、おもしろい批評文なんて書けない、でも努力するのも嫌だ嫌だもう好きにして、という場合にはどうすればよいでしょう。このものぐさ者!でも手はあります。意志あるところに方法あり、です。
 「おもしろく」なくても、少なくとも相手を振り向かせれば、つまり最低その人だけは読んでくれるのですから、それを狙うのが手です。ここはひとつ「気に障ることば」を相手に投げつけるのがよいでしょう。批評文に「ばか・たこ・はげ・まぬけ・水虫・おまえのかーちゃんでべそ」などの罵倒語を混ぜてみましょう。あるいは、相手が文学だとか人生だとか芸術だとか哲学だとか言語学だとか社会学だとかについて、真面目に論じているのだったら「それが文学?この幸せ者!」とか言ってごらんなさい。大いに気障りなこと間違いなしです。口を聞いてくれなくなるかもしれません。
 万が一、相手から反論が返ってきて、そこから議論が始まることもあるかもしれません。もっとも実りの方はあまり期待できません。そこで反論してくるようなガッツのある人は、何かの志があったり、何かの事情でプライドが高かったり、問題意識を持っていたりで、要するにカタギの人間ではないので、カタギでない議論になる可能性が高いからです。とにかく相手はあなたを絶対ゆるせないと思っています。あなただって、こうなった以上相手に頭を下げるつもりはありません。なんとなれば、ことばケンカの渦中にいると、必ず相手が「バカ」に見えるからです。こんな「バカ」にわびを入れるくらいなら、とあなたは考えます。相手も考えます。こうなるともう結論は決まっていて、「あんたとはやっとられんわ」とケンカ別れに落ち着くことになります。
 このような「ことばの幸せ者」同士のことばケンカは、観戦している方にとってもあまり面白いものではありません。だいたいが読むにたえない「つまらない批評文」が事の発端なのですから、ことばとしておもしろい訳がありません。もうひとつ、ことばケンカをしている時というのは、人はついつい「正論」ばかりを(もちろん当人にとっての「正しいこと」ですが)、並べてしまいがちです。そういう雑誌がありますね。普通人は、正義の持ち合わせはそう多くありません。「正論」のレパートリーは案外少ないのです。自然、ことばの応酬も単調になり、どこかで聞いたようなことばばかりがえんえん繰り返されるという訳です。たまに冗談やデタラメなことを言って相手をびっくりさせようという手を使おうとする人もいますが、ハイホー、いかんせん場合が場合ですから、余裕のないものになりがちです。

4.実践篇−おもしろいものを書く


 シリーズ4回目にして、もう事の根幹に触れるテーマが現れました。前回は、「おもしろくもない批評文はろくなもんではない」ということをやりましたが、ここで出てくる当然の疑問があります。では、どうすればおもしろいものが書けるのでしょう?ああ、それこそ私たちが本当に知りたかったことです。しかし、こんなディープなテーマばかりを扱っていては、こっちも体が持ちませんから(昨夜なんかくるぶしを捻ってしまって湿布してるくらいです)、次回は絶対息抜きしようと心に誓って、先に進むことにします。
 笑わせようとして言った冗談は、受けないという意見があります。本当は少し違います。これは原因と結果の取り違いで、えらい理論家もよくやる間違いです。例えば老人が骨折しやすいのは、骨が脆くなってるからだという話がありますが、実は老人といえど、最盛期からくらべてたった22%しか骨の強度は落ちていません。それよりむしろ、筋肉の不随意な動き、痙攣を抑えられなくなるのが問題で、その結果転びやすくなり、しかも身体を守れない姿勢に硬直したまま転んでしまうのです。スキーなどを見てもわかるように、へたに転べば若者だって骨折します。アフリカ・インパラなどは、ライオンに出会ってびっくりした拍子に、筋肉(大腿筋)の痙攣で足を骨を折ってしまいます。つまり骨が弱いから骨折するのでなく、骨折したから骨が弱いなんてことになってしまうのです。インパラにいたっては、転んだから骨折した訳でなく、骨折したが故に転ぶのです。
 冗談については、こうです。笑わせようとして口にした冗談がすべってしまった、受けなかった。しらける空気。後には「笑わせようとした意図」ばかりが置き去りにされます。さあ、やつあたりです。置き去りにされた「意図」は《結果》にすぎないのに、そんなところにいたばっかりに、今度は受けなかった《原因》にされてしまうのです。本当は、時と場所と言う相手を間違えたのか、あるいはその冗談が本当につまらなかったか、そのいずれかなのに。
 受けを狙うことは、恥ずかしいことではありません。しかし、それを「受けなかった」言い訳にすることはしてはならないのです。

 語るに落ちたので、残りは「文学」の話でもしましょう。ディケンズの『荒涼館』(BLEAK HOUSE)の解説にこんなのがありました。
 「……しかし主題と作中人物とプロットの密接な関係付けと言っても、彼は主題に即して人物の性格を設定し、人物同士の葛藤がシチュエーションを生み、」それがプロットを発展させるという近代小説のドラマティックな構成法をとったわけではない。彼の小説は最後まで、題材とその扱い方におけるセンセーショナリズム、ストーリーの重視、偶然の暗号に頼るプロット、めでたしめでたしの結末を捨て切れなかったし、一つの作品の中で喜劇、悲劇、メロドラマ、ファルスを併用した。
「それゆえ、彼の晩年以後、リアリズムと小説の芸術的自立性とが確立されるにつれて、彼に対する批判が多くなり、今上げたいくつかの点の他に、彼の通俗性、誇張、作中人物の内面的またリアリスティックな探求の不足、センチメンタリズムとオプティミズムの過剰、性の問題の欠如、社会批判の幼稚などが指摘された」
 ようするにディケンズは(文学じゃなくて)マンガだ、という訳です。カバーをかけてもらえないかもしれません。話はかわりますが『ヒッチコック映画術』で、トリュフォーという人が序文にこんなことを書いています。
「古典的な映画文法によれば、サスペンスのシーンは一本の映画の中でとくにきわだった瞬間、すなわちそこだけはとくに記憶に残る鮮烈なシーンを構成するものである。ところがヒッチコックは、彼の映画群をずっと追って見ればすぐ気が付くことだが、映画に手を染めてからずっと、どんな瞬間もとくにきわだった瞬間であるような映画、彼自身の言うところによれば、『ボコッと穴があいていたりしみなんかがついていない』映画をつねにつくりあげようとしてきたのである」
 また話はかわりますが、赤瀬川原平という人が、こんなことを言っていました。野球でピッチャーの仕事はストライクを3つ取ることです。ところが普通のピッチャーは打者をうちとるための球を1つか2つしか持っていません。そこであとの1球か2球は、ただストライク・カウントを増やすだけの球、赤瀬川氏いわく「ストライクゾーンにただ置きにいく球」になるわけですが、そういう「退屈なボール」はやっはり打者に打たれてしまいます。文章を書くにも同じことがあって、普通作家は300枚とか50枚とか書けば仕事になるのだけど、本当はその1/3〜1/100くらいしか書くことがないのです。そこで「原稿用紙にただ置きにいくだけの言葉」を書いてしまいます。それはプロットの進行上必要な「つなぎの言葉」だったり「説明」だったりするのだけど、そんな「退屈な言葉」はやっぱり、「ボコッとあいた穴」だったり「しみ」だったりするのです(ここから言うのは悪口ですが、「ストライクゾーン」知ってるというだけで、自分は「書ける」だなんて思っていやがる連中がいらっしゃいます。お前らの投げる球なんて、ホームベースにだって届かないじゃないか、です。次に打者をうちとるには、ただストライクゾーンにボールを投げれていればいいんだと信じてる輩です。おまえなんかめった打ちだ、です。悪口終わり。でもこれに該当する人って、この悪口が何のこと言ってるのか、第一自分のこと言われてるのかどうかも、分からなかったりするのです。もうつかれました。De te fabula narratur!(これはおまえのことだぞ!)。悪口本当に終わり)。
 さあ、まとめです。トリュフォーがいうには、ヒッチコックはそんな「ストライクゾーンにただ置きにいく球」なんか絶対投げなかったし、投げる気もさらさらありませんでした。「映画の文法や演出の正攻法なんかに固執する保守的な連中」に、おまえの映画はありそうもない事の連続だ、シチュエーションがあまりに不自然だ、漫画だ漫画、と言われても、ヒッチコックはそんな「らしさ」なんかまったくお構いなしでした(だって連中はただ「映画の真似」をしてるだけだから)。加えてヒッチコックはそんな退屈な連中と違って投げる球をたくさん持っていました。ディケンズもそうで、3球で三振なのに彼ときたら、一人の打者に何十球も(これでもかこれでもかこれでもか)投げてしまうのです。ジジェクという人がラカンの剰余享楽とマルクスの剰余価値との関係について、件の『ヒッチコック映画術』を引いてこんなことを書いています。「『北北西に進路をとれ』のために、ヒッチコックは、結局は撮影されなかったつぎのようなシーンのプランを立てた。ケイリー・グラントと彼の連れが何か話しながら自動車工場で組立てラインに沿って歩いている。その速度は、背景の組立てラインで車が組み立てられていくのと同じである。つまり、一連の切れ目のないショットを通じて、彼ら二人の背後で、われわれは一台の車が組み立てられるすべての過程を、はっきりと目撃することができる−−−一台の自動車へと組み立てられる部品のすべてを目にするのだ。組立てラインの終りのところで、グラントが、車のほうに向き直り、ドアを開けると、なかから血まみれの死体が転げ落ちる」。これが剰余価値だ!「この死体は、小文字の対象aである。純粋の見せかけ【仮象】、「どこでもないところから」魔法のように出現した剰余であり、それと同時に、生産過程に入った要素よりも以上の剰余でもある。」
そしてディケンズの小説であれば、ライン上で生産されるどの車からだって死体が出てきてしまうのです。ディケンズやりすぎです。

 受けを狙うことは、恥ずかしいことではありません。しかもやりすぎることを恐れてはいけないのです。

5.実践篇−身のまわりのことを書く


 身のまわりのことを書くというのは、実はここだけの話、今とってもお勧めです。全然「身のまわり」でないこと、たとえば「世界経済」について何か書いたりすると、どこからか(専門家とか事情通だとかいう人から等)、クレームがつく場合があります(もっとも「世界経済の専門家」なんていないんですけどね)。身のまわりのことだとその心配はありません。何しろ身のまわりのことなので、あなたより余計に知ってる人はいないからです。しかし油断はできません。ここで伏兵のように現れるのは、身内の人というやつです。昔、高円寺で暮らしていた話をエッセイ風に書いた人でしたが、「お前、ほんとは阿佐ヶ谷に住んでたじゃないか」と昔の友達につっこまれたといいます。いっしょに暮らしてたりすると、こんなものではすみません。言葉というのはそれだけでもう嘘みたいなものですから、本人は「写実」のつもりでも、現実をしっかと捉えてると思っていても、「えらそうな顔して何書いてんの。はよ、ご飯食べえな。片付かへんやんか」とか、まあいろいろそういうことです。
 そうすると、今度は「身の内にあること」を書いたりします。もうその人の頭(あるいは体)の中にしかないものです。これは誰も知りませんから、ようやく一安心です。ところがどっこい、これにも盲点があります。書く以上、「ことば」を使わなければならない訳ですか、これは他人も使うものなので、自分が一番よく知ってるという訳にはいきません。「うるさい、好きに書いてるんだ」と言っても、「文法的におかしい」「誤字脱字いっぱい」「でも、あんたの文章、めちゃくちゃだよ」「わざわざ書くまでもないんじゃない」と言われることもままあります。牢屋に入ったからロシア語の勉強でもしよう、でも辞書も何もないや、まあいいか、自分で作っちゃえ、といって作った人がいるそうです。その人が入った独房には、誰も読めない文字でつくった誰も知らない単語を誰も理解できない文法に従って並べたものが、壁一面に書いてありました。ロシア人もびっくりです。ということは、これは誰も読んでくれない訳で(読めない訳で)、これでは「いつも読んでます。枕カバー作ったので、よかったら使ってください」なんてファンレターは望めそうにもありません。

6.実践篇−文学文を書く


 文章を書く以上は、ちょっとくらいは「志」のようなものを持つのもよいでしょう。というわけで、今回は文学文というのを取り上げましょう。「文学文」というのは、文字通り、「文学な文」「文学的な文」「文学っぽい文」のことです。たとえば「哲学とは何か?」といった問いかけや、それに対するための際限のない言葉や思考の積み重ねは、そのまんま「哲学」です。今の問いに簡単に答えるならこう言えるでしょう、すなわち「哲学とは、哲学についてのおしゃべりである」。リカーシブ(再帰的)な定義という奴です。ところがこれは哲学が特別なのであって、「文学についてのおしゃべり」は必ずしも「文学」ではありません。たまたま「文学」な時だってありますが、大抵は全然「文学」じゃありません。だから「文学とは何か」と論じたり考えたりすることも、大抵は「文学」ですらありません。うっとうしいのは、いつもいい加減な「文学の定義」が、これから書こうという人に(文学なんかに何の縁もゆかりもない人にも)「何を書くべきか」(やれ「人間」を書けとか、とにかく「書け」とか、どうのこうの)「教えて」しまうことです。
 パラフレーズしてみましょう。たとえばあなたは、いや私はよく「人でなし」とか「でくのぼう」とは言われます。私は別に「棒」ではないのですが、そうなのです。「人とは何か?」と考えてみましょう。昔の哲学者は「人」にできて、獣や棒にはできないことで人を定義しました。「すごいだろ、人間は」ってな訳です。ところがいったい誰に向かって威張ってるのかということになって、最近では大抵の場合、「人の本質」だとか「人間性」だとかいうのは、実は「人間の弱さ」だとか「人の限界」だとかのことです。「限界=境界」を描いて、それで「輪郭」を描いたことにして、「人の本質」はこんなもんだとか言うわけです。このような仕方で物事の「本質」を取り扱うやり方は、直接にはロシアの哲学者ウラジミール・イリイチ・レーニンに端を発します。レーニンは「もっとも弱い輪」ということを言いました。鎖に力をかけると一番弱い輪からちぎれます。つまり鎖全体の強さは、鎖の中の一番弱い輪の強さと同じな訳です。「本質=最も弱い輪」です。たとえば「人間は言葉を操る動物だ」と「定義」したとしましょう。でも操れない人だっています。アニマルライトの論者たちは、たとえ幼児や知的障害者が知的、言語的には動物よりも劣ることがあったとしても配慮されるべきであるという理由から、言語能力や知的能力を境界基準とするメルクマールに反対しました。「本質=最も弱い輪」です。
 話が危なくなってきたので、いそいで「文学」に戻りましょう。重要なのは、「文学とは何か」という問いに対する立派な答えなんかでなく、「お前の書いた××なんか文学じゃない」というその都度なされる「指し示し」です。何となれば、「人とは何か?」には誰も答えられなくても、人差し指を突き付けて相手に「このぉ、人でなし」と言うことはできるからです。そうは言っても、実際に相手の健康保険や国籍や基本的人権を取り上げるにはひどく面倒くさい手続きが必要ですから、いろいろ時間と手間がかかる間に冷静になって「確かにあいつもひどいけど、俺も言いすぎた」と反省できます。ですが、言われた方はカチンと来るでしょう。普段、「人間」なるものをそんな立派なものと思っていなくてもそうでしょう。涙を流して「どうしてそんな酷いことをいうのですか。私は人間です」とか言うでしょう。でも文学については、そうではありません。カチンと来て「じゃあ、お前のいう文学って何だ?」と反論しても、「いいえ、私の書いたものは文学です。間違いありません」と言う人はあまりいません。「そうだよ、俺のは文学じゃないよ。それがどうした?」とは言うことはあっても、「おだまりなさい。そして目を開いてよく見なさい。これが文学です」とは言いません。「文学」は多くの場合、否定形で登場します。いいえ、むしろほとんどの文学論を開始するあの問い「文学とは何か?」には、「これは文学でない」という否定の指し示しが先行しているのです。「おまえは悪い−だから私は良い」ニーチェが言う奴隷道徳です。「文学についてのおしゃべり」が多くの場合「文学」でないのは、表現のレベルに達してないからでも、「文学」程度にもおもしろくないからでもなくて、ただ「(これは)文学でない」から始められているからです。
 こんなかったるい「本質論」をうっちゃる方法をあげて、「文学文」の書き方にかえましょう。これも哲学からの盗用ですが、ある人は「人間とは何か?」という問いに対して、「人間はいる」と答えました。なんて噛み合わない問いと答えでしょう。正確には「人間は存在である」と答えたのですが、同じことです(大きなお世話ですが、そういうのがアリなら、机だって毒ガスだって文学だって「存在」です)。さて、誰かがあなたに聞きます「文学とは何か?」。でももう答えは決まってます。……そうして、その答えは、うれしいことに「いったい何を書くべきか/書いたらよいか」については何にも教えてくれないのです。

7.読書感想文を書く


 読書感想文とは、何か読んで、その感想を書く文章です。ですので、とにかくまず読まなくてはいけません。この時に大切なのは、それがどれだけひどい文章でも、かならず相手に理があると思って読むことです。つまり、とりあえず「相手の書いてることは正しい」のです。テニヲハがおかしくても、「従来から」(「従来」だけで「から」は余分です)とか「犯罪を犯す」(「犯」が二重になってるんだから気づきなさい)とか「確信もって思う」(「確信する」でしょ)とか一見通ってしまいそうで実はヘンテコな表現があったとしても、たとえ相手の言ってることがてんでわからなくても、とにかく「正しい」のです。なんとなれば、「相手の言ってることがわからない」というのは、用語や言い回しが難しいとか、相手の主張がどの段落に書いてあるかわからないとかいう場合よりむしろ、相手の主張はだいたい解る、でも

「なんでまた、こんなこと言い出したのか、が解らない」

ということが多いからです。相手の気持ちなんて結局解りません。しかし解るつもりになるには、とりあえず相手の気持ちになってみる努力すべきです。具体的にいえば、相手はあんなのでも、自分の書いたものは「正しい」と思って書いてるのですから(もっともすべての文章がそんな風に思って書かれるのではありません)、読む方も「とりあえず正しい」と決めてかかって読んでみるべきなのです。それが相手の気持ちになる第一歩になります。そして「なんでまた、こんなこと言い出したのか」が分かれば、あとはとりえずどうでもいいくらいなのです。
 相手の気持ちになろうとすると、大抵気持ち悪くなります。トイレに走っていきたくなります。我慢の限界です。ですが、「いったいどこでそうなったのか」をちゃんと覚えておくと、相手と自分の違いを把握する糸口になります。親指と人差し指で輪を作り、誰かにそれをこじ開けてもらうのです。これをOリングテストと云います。別に「こいつがこんなバカなことを書くのは、父権の喪失が原因だ」とか精神分析や文明批判まですることはありません。そんな手は、相手が何も言ってくれなくてとりつくしまがないけど、相手への攻撃の手を緩めたくないときだけ使えばいいのです(「友達になって下さい」とか)。
 よく見かけるのに、「感想文」だと書かれてあるのですが、文章を読むと、確かに相手の文章や主張の断片が繰り返し出てきて読んだらしい形跡はあるのですけれど、全体としてはいつも同じこと言ってる、というのがあります。とにかくどんな文章の「感想」でも、全然同じなのです。こんなのはただの意見の開陳であって、「感想」なんてレベルのものではありません。たとえば「私は〜と思う」と書いてあっても、「〜」に入るのはいっつも一緒なのです。「〜は嫌いだ」と書いてあっても、「〜」に入るのはいっつも一緒なのです。神学者のルターは、悪魔が嫌いで「悪魔、悪魔、悪魔」と、自分の文章にたくさん「悪魔」という言葉を登場させました。本当は大好きなのかもしれません(ああ、こんなことうっかり書いたら不敬罪です)。きっと一本筋の通った人なのでしょう。そういう人、嫌いではありません。でも、とりあえず相手の書いたものも読んでいただきたい、と私は思います。

8.わかりやすい文を書く


 わかりやすい文章について考えてみましょう。パブリックな文章の多くは、中学2年生程度の国語力・読解力で読みこなせるように書かれている(またそうあるべきだ)という話があります(とあるマスコミ講座の先生が云ってました)。これはもちろん、そのような文章が「中学2年生程度の国語力」で書かれているということではありません。恐ろしくって、そんなこと口に出して言えません。日本の哲学者が他の国の同業者に比べて、世間的地位が低いのは(ありていに言って軽蔑されているのは)、まともな文章が書けないからだと言われています。例えば7月革命期のフランスでは、哲学者は「理想的人間」と考えられ、その証拠にトランプの王様(キング)の代わりに哲学者が用いられていました。かといって、フランス文学者の翻訳が、現代フランス哲学の成果をより読みやすいものとして提供したという話もついぞ聞きません。
 わかりやすい文章を書くためには、「わかっている」ことが第一です。わかってもいないのに、わかりやすくなんか書けないからです。これはおそらく多くの方の同意が得られることと思いますが、「わかったつもり」の文章というのは、あちこちで随分多く見受けられます。「わかったつもり」で書き出すのはよいとしても、書いた後でも「つもり」のままというのは、ちょっと困りものです(普通途中で気付きそうなもんですが)。ところが「わかったつもり」の文章というのは、結構わかりやすいものです。どこがわかりやすいのかと言うと、読んでみると「あ、この人わかったつもり」になってるんだな、というのが、ものすごくよくわかる文章になっています。これは書いた当人にとってあまり都合の良いものではありませんが、読む方には助かります。最初だけ読んで、飛ばしてしまうことができるからです。気を付けなければならないのはただ、「わかったつもり」の文章と「わかったふりをしている」文章を区別することだけです。
 「わかってる」と「わかりやすい」の関係は、考えられるほどわかりやすいものではありません。例えば、「わかりやすい」文章を書く人が、より多く・深く「わかっている」、あるいは理解力・読解力がすぐれていると、一概に断ずることはできません。普段から「わかりにくいこと」をあまり頭に出し入れしてなくて、考えていること自体がとっても「わかりやすい」だけなのかもしれません。もちろん、「わかりやすいこと」をわかりやすく書くだけでも立派なものです。個人的には「わかりにくいこと」をわかりやすく書く人がいてくれるととても助かるのですが、「わかりにくいこと」をわかりにくいままでも、とにかく書いちゃう人がいるだけで有難いです。「わかりにくいこと」なんて存在しない(というか存在しないで欲しい)と思ってる人たちが、「わかりにくいこと」がちらっと顔を見せただけで、(ほんの少しの間ですが)静かにしていてくれるからです。「難しいこと嫌いです」なんて言ってはいけません。それだったらかわりに「メカニックなこと、少しわかりません」とか(なんだかわからないことでも)言うべきなのです。

9.長い文を書く


 書くことが山ほどあるというなら、考えることはありません。それをそのまま書けば、たっぷり長いものになります。ところが往々にして、「想い」があふれんばかりにたくさんあっても、それがそのまま「書くこと」には変換されないものです。“「想い」があふれんばかりにたくさんある”と、カッコもいれてもたった19文字です。どんなに波乱にとんだ人生でも「いろいろあった」、7文字でおしまいです。
 かといって、「水増し」というのは、感心しません。こんな国にいると価値観がおかしくなりますが、世界中のほとんどのところで、水は「ただ」でも「ありあまっているもの」でもありません。「水」はそんなに簡単なものじゃないのです。かといって「砂増し」しろとか(じゃりじゃりします)、「油すまし」しろ(これは妖怪です)という訳ではありません。
 人は「書くこと」があるから書くのだとか、「書くこと」がないから書かないのだというのは、愚かな考えです。そう考えるのは愚か者です。つまり愚かしい人間です。どうしたって「書くこと」なんかないのに書き続けている人はあちこちにいっぱいいます(「書き続けてる」のはもうわかったから、そんなの見せてくれなくたって、いいって云うのに)。書く理由もなさそうなのに、原稿用紙のマス目を埋めることが何よりも喜びである人も少なくありません。聞いた話ですが、筋肉を鍛えることとは際限がないので(筋肉のテンションが自分の骨格を損なうまでも、鍛えることが可能なのだそうです)、絶好の「人生の目標(ひまつぶし)」になるのだそうです。言葉を綴ることも似たところがあって、森林資源を枯渇させてしまっても(あるいはもっと高くつく資源やエネルギーを台無しにしてしまっても)、人は繰り言のように書くことをやめないでしょう。そうです、やめるもんですか!

#.番外篇


 私の師である言葉使いの導師(グル)は、かつて私に2つの課題を与えました。

 1.自分のことを書いてはならない。
 2.他人のことも書いてはならない。

 それでもお前に何か書くことが残っているなら、再び私のところへ来なさい、というのです。
 私はどちらかといえば、1.の教えをよく守っています。2.については、てんで守っていません。

 「自分のこと」というのは、自分の感覚、印象、体験、観念、感じたこと、考えたこと、覚えていること、その他諸々を云います。
 「他人のこと」というのは、他人の感覚、印象、体験、観念、感じたこと、考えたこと、覚えていること、その他諸々を云います。
 話を聞いたり本を読んだりして感じたり知ったりしたことは、どちらかといえば「他人のこと」です。

&.特別篇<

BR>

 告白しますが、この「文章読本」には元ネタがあります。前回「番外篇」で登場した師が書いた「文章読本」です。私は不肖の弟子ですから、教えをちっとも守ってないし(大体ついていけないところも多いし)、おまけに「文章読本」も勝手にアレンジして使っていますが(ご覧の通り、影響でかいです)、ここでオリジナルを出しておいて、私は楽をする、もとい、初心に返るのもよいかと思いました。師は機械オンチでしたが、いまではNiftyに入ってて、ここを見てる可能性もあるからです(黙ってたのに、先日友達がここを読んで「ひどいもの書いてるな」と電話してきたくらいですから)。

 =文章読本=
 1.自分を味方につける
   文章を書くとき、一番必要なのは自信(コンフィデンス)です。自信がなく
  ては何も書けません。「私は何も書けませんから」と、大抵の人はここでつま
  ずいてしまいます。「私のようなものが何か書いても良いのだろうか」なんて
  思ってしまったら負けです。世の物書きはみんなエラそうにものを書いてます
  が、別にエライ訳ではありません。「自分は文章を書いてもよいのだ」と誰で
  も思って良いのです。文章を書いているうちには、人から文句をつけられるこ
  ともあるでしょう。「自分は天才だ」などというのは、はなはだしい勘違いで
  すが、「書いても良いのだ」というのは当然のことです。だから何を言われよ
  うが、最低限の自信だけは持ち続けるべきです。「私はやっぱり文章がヘタだ
  から」というのは理由になりません。大抵の人が、自分でも我慢ならないほど
  ひどい文章を書いているのです。それでも書かなくてははじまりません。その
  ためにはムリヤリにでも、自分を味方につけて、自己嫌悪を締め殺し、ペンを
  握るべきなのです。

 2.ウソをつかない
   作文指導というと、小学校の先生などは、無責任にも「自分の思ったとおり
  書きなさい」なんて言います。そんなことできるはずがありません。できたら
  天才です。----しかし、それに少しでも近付くためには、まずウソをついては
  いけません。ウソはばれます。ウソのバリエーションは案外少ないからです。
  ウソというのは、自分が信じてもいないことや、この場合はこう答えておけば
  いいや、と思って書くことも含まれます。つゆも思ってないのに「よく生きる
  にはどうすればいいか」なんて口走ってしまうようなものです。そういう「必
  勝パターン」をどんどん取り除いていくと、そのうち「自分はなんてカラッポ
  な人間なのだろう」ということになります。しかし自分がパターン人間である
  ことなど、最初から分かっていたことです。「個性」に見えたのは、パターン
  の偏り(バイアス)や組合せの異なりだけです。「ちょっとうまく文章が書け
  る」なんて思っていた人は、このあたりでつまずきます。本当は最初からその
  程度のことは知っていたのですが、人に誉められていい気になっているうちに
  忘れてしまったのです。

 3.自分のことは書かない
   ここまできても、やめてはいけません。「もう書くことがない」なんていう
  のは甘えです。「自分は書いてもいいんだ」という不遜な自信と筆記具だけは
  持ち続けなくてはなりません。ここまできたら、あと注意することは多くはあ
  りません。「自分のこと」「自分の感じたこと」「自分の考えたこと」を書か
  ないというだけです。-----「ウソ」を書いて受けるがプロなように(本当のこ
  とだけ書いてたらとても身がもちません)、「自分」を書いて受けるのもプロ
  だけです。そうなりたい人はプロになりなさい。-----プロでもない人は、「自
  分」を書いてはいけません。気持ち悪いだけです。他人には、ちっとも関係な
  いことなのですから。ここでいきなり、じゃあ「現実」とか「社会」を書きま
  しょうという人は、2.からやり直してください。ここで言うのは、そんなこ
  とではないのです。
   懸命な人はもうお気付きでしょうう。書くべきことは、「どこかで聞いてき
  たこと」でも「自分が思ったころ」でもなくて、「思ってもみなかったこと」
  なのです。「自分が考えた(と信じる)こと」でなく「考えもしなかったこと」
  なのです。それは書き馴れた人の「手くせ」なのではなく(それは2.の段階
  にすぎません)、もっと別のものなのです。考えをまとめて書くというのは、
  「手紙」や「小論文」であって(それはむしろ社交辞令に類するものです)、
  「文章」ではありません。どうして考えてもいないことが書けるのかと、信用
  しない人もいるでしょう。けれど「自分の考え・感じたこと」を書くというの
  は、「文章」でなくただ「思考の記録」にすぎないのです。「考えてもいない
  こと」が書けないなら、「文章」を書く意味なんてないのです。

 4.読み返す
   そうして出来上がった「文章」は、きっと読むにたえないものでしょう。こ
  れまで述べたのは、ただ「文章を書く」仕方であって、「じょうずに文章を書
  く」仕方ではないからです。しかし「文章」を書くことに比べたら、(文章を
  書いた人が)「上手な文章」を書くことはずっと容易です。まずその「読むに
  たえないもの」を無理やり読み返すところから、はじめましょう。いやだ、と
  言っても駄目です。生み出したのは自分なのだから、責任は取るべきです。読
  めば「へたくそさ」が身にしみるでしょう。何事もそうですが、身にしみない
  うちは変わりません。そして身にしみたら、「へたくそ」を書き直すのでなく、
  また「へたくそ」を書き始めるのです。

6.実践篇−手紙文を書く


 いつもいつも役立たずではいけません。今回は、実用文の一つとして、手紙文の書き方を取り上げましょう。露伴は「普通文章論」の中で、実用文を、A.事を記するもの、B.事を説くもの、C.意を伝えるもの、D.情を訴えるもの、の4つのいずれか/あるいはその組合せであるとしました。実用的な分類です。フッサールは『論理学研究』において、記号を「表現」と「指標」とに分け、「指標」を外的・経験的なものを指し示す記号であり、更に言うと指示するものと指示されるものとの間に実在的事実関係がある記号としました。実在的事実関係とは、例えば言葉と事物の関係ですし、私の気持ちを言葉で伝えようとしてるなら、その時の言葉と気持ちの関係がそうです。つまり何か指し示すとき/何か伝達しようとするとき、その記号は「指標」なのです。こんな分類は何の役にも立ちません。
 手紙は相手があるものですから、ただ「事を記する」だけでは、手紙にはなりません(もちろん、ウソを書けばよいと言うものでもありません)。今日では、手紙でわざわざ事を説いたりすることもあまりありません(時々いらっしゃいますが、やめてください)。例えばラブレターの目的は、相手を堕落させることでしょうか。いいえ、恥ずかしいのでそう悪びれてるだけで、本当は「意を伝える」「情を訴える」かするものです。
 そんな時に「たとえ話」をするなんて、愚の骨頂です。向こうが「ちゃんと目を見ていってよ」と言ってるのに、物語をはじめてしまうなんて、おバカにも程があります。「あんたの言うことはわからない」ときっと言われるでしょう。相手は「たとえ話」がわからない訳ではありません、そんなこと始めてしまうあなたがわからないのです。
 言葉には、どんなに自分でよく分かってる時であっても、(誰かに)言ってもらわないとしかたがないものがあります。それはどれもたわいのない言葉です。そしてそんな「たわいのない言葉」を、たかだか言葉を、どれだけ切実に必要としている人がいるか、わからない人には決して口にできない言葉であるのです。

7.実践篇−創作文を書く(その1)


 「人の作品なら、面白いとかつまらないとか、デッサンがくるってるとか、美しいとか一目瞭然なのに、だからといって自分で描けるかというと描けないのは何故だろう」
(吉野朔美「少女漫画家の瞳には三等星の星が光る」)

 長いこと続いてきた「文章読本」も、とうとう最後となりました。ラストはもちろん創作文です。創作は誰でもできます。E・A・ポーは、文学文の生産はクリエイションでなく、「コンポジション」だと言っています。ほんとは「コンビネーション」と言うべきだったのかもしれません。俳句等の「定型詩」へのいいがかりに、「五・七・五の組合せは有限だから、いずれいきづまりが来る」というものがあります。そして、それに対する反論に「いや、その組合せの数は天文学的だから、大丈夫なんだ」というのもあります。いったい何が「大丈夫」なのでしょう。あなたはその「天文学的な多様性」の中に、自分の居場所を見つけた気になっているのかも知れませんが(もちろんあなたの俳句もその組合せのひとつに違いないのですが)、そこに居ることのできるのは「ただの文字列」であっても、ちっとも俳句でないのです。それが「俳句」かどうかは、おもしろいかどうかは、さらに言うなら「文学的多様性」というのは、そうした組合せ演算を根拠とする訳ではありません。自由意志が、量子力学的不確定性から導き出される訳ではないのと同じことです。クルト・ゲーデルは、ウィリアム・ジェームズのいう「堅い決定論」の立場を取りながらも、なおかつそれが「自由意志」と両立するのだ、と主張しました。「過去に私がなしたこと」について考えてみましょう。過去の行動は変えることができない。しかし私はその行動を取らないこともできた、つまり過去においてその行動をとる(あるいはとらない)「自由」があった。その限りで、過去の事象に対しては、決定論と自由意志説は両立可能です。しかし未来に関して我々がそのように考えないのは、時間の向きと因果の向きが同じであり、なおかつ結果たる事象が原因たる事象に先立つことはあり得ない、と信じているからにすぎず、いわば「反宿命論的確信」を、我々の宇宙に(そして時間に)押し付けているにすぎません。アインシュタインはこう言っています。「私たちのように物理学を信じている人々は、(相対性理論が示してみせるように)過去と現在と未来の区分は一つの頑強にしがみついている幻想にすぎないことを知っています」。
 「どうしたらうまく書けるようになるのか?」という質問は、「どうしたら美人になれるのか?」と問うのを同じなのです。美人になんかなれません。でも努力と方法は、いくらでも転がっています。エステと文章教室。効果が期待できないのではなく(もちろん効果はあります)、最初にひとつの「呪い」から始めているのが間違いなのです。では何故「どうしたら美人になれるのか?」なんてことから始めてしまうのでしょう?それは「美人」じゃないからです。つまり、「私は美人じゃない。というのは、私は自分が期待したほど、人からちやほやされてないから」ということです。だったら処方箋は「汝自身を知れ(身のほどを知りやがれ)」でしょうか。いいえ、そうではありません。
 ソクラテスは神託を受けて哲学者としてデビューしましたが、キニク派のディオゲネス(樽の中の哲学者)もまた神託を受け、まずは貨幣改鋳者(贋金造り)としてスタートしました。ソクラテスは著名な知恵者のところへ赴き、問い尋ねることで、知恵者の持つ知が偽物であることを、知恵者が無知であることを、明るみに出し(それで彼はひどく怨まれたし、処刑されもしました)、一方ディオゲネスは、下された神託「ポリティコン・ノミスマ(国の中で広く通用してるもの=諸制度・習慣=道徳・価値)を変えよ」に従って、実際に通貨=価値を変えてみせたのです。ディオゲネスはそのため、国外に追放されました。同じ出発点を持つ二人は、やっぱりそっくりです。ソクラテスは、つまり通用している知が「贋金」に他ならないといっているのであり、一方ディオゲネスはあえて貨幣偽造を行ないそれを発行することで、あらゆる通貨が「偽物」に過ぎないことを示して見せているのです。
 ところでソクラテスは、その否定・相対化の末に、地上の流通に属さない「真なる知」を導いて行くのですが、ディオゲネスはただすべては「贋金」だというだけでした。ディオゲネスは、誰かにソクラテスのように己の無知を指摘されても、このように答えます。「たとえぼくが知恵のあるふりをしているだけだとしても、そのことだってまた哲学をしていることなのだ」(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシャ哲学者列伝』第6巻第2章64)。
 地上の流通に属する知である以上、ソクラテス自身もまた「無知=贋金」である他ありません。が、それを知ること、自身が「無知=贋金」であることを知ることが、他ならぬ「真なる知」への起点となるのです。ソクラテスにおいては、「無知」を知ることと、「無知を知ることの意義」を知ることが、彼をして哲学者たらしめているのですが、その弁証法を振り出しに戻してもなお(そして実際は何度でも振り出しにもどるのです)、ディオゲネスは貨幣偽造者=哲学者なのです。ディオゲネスが行なったのは「真なる知(貨幣)」を造ることなんかでなく、「無知=贋金」を生み出し流通させることでした(そして「唯一の貨幣」という価値を破産させることでした)。ソクラテスによって「無知=贋金」と鑑定されたものたちが、ディオゲネスの手の中でよみがえります。いいえ、知=貨幣は、だれかの「懐疑」や「鑑定」によって「無知=贋金」なのではなく、常に/すでに「無知=贋金」なのです。それ故にこそ「知恵のあるふりをすること(無知=貨幣偽造)」をも「哲学すること(知=貨幣)」なのです。さらにいえば、「貨幣を偽造すること」なしに、人は考えること(書くこと)はできないのです。

(その2へ つづく)

&.番外篇−論理的な文を書く


 「論理(ロジック)では人は説得されない」という考えがあります。それは多分その通りです。例えば、自分が正常(まとも)であると誰かに対して証明しようとする人間は、その限りで正常(まとも)とは認められません。それ故に、証明に用いられる論理(ロジック)がいかに精緻なものであっても(そして精緻であればあるだけ)、その人のイカレ具合は際立つでしょう。いよいよ彼は周りから浮き上がるに違いありません。それくらいのことは彼にだって分かっています。けれどどうしようもない。彼はますます理をつくして述べ立てるか、あるいはそのまま押し黙るかしかありません。
 けれど、そうまでして語ろうとする彼の言葉が、論理(ロジック)だけでできているなんてあり得るでしょうか。どうして彼の言葉を聞く人は、彼の論理(ロジック)が正しいことだけを知り、そしてその他のことについては知らんぷりをするのでしょう。そうまでして彼が語ろうとする理由、そうまでして彼が語ろうとする何か、はどうでもよいというのでしょうか。そう、どうでもよいのです。お前の話なんか鼻っから聞く耳を持たないというのです。さっきの「人」を「私」に置き換えればもっとはっきりします。「論理(ロジック)では私は説得されない」。ではどうすればよいのでしょう。郷に入れば郷に従え、我々の軍門にくだれ、(おれたちの)ルールに従え、口の聞き方を覚えろ、誠意を示せ、とにかく頭を下げろ、話す前にほら出すものがあるだろ、何だその目は文句あるのか、貢ぎものを持ってこい、俺のクツをなめろ……
「私の話を聞いてください」
こんなに何もできない言葉はありません。
 どうしようもない絶望−たとえば治療不能の病の床にある人は、周りの人びとの思いやる美しい気持ちから出た言葉、なぐさめでありはげましである言葉、そして実のところ「美しい」けれど何も語らない言葉、何の内容もない言葉を、毎日浴びていくことになるでしょう。彼にあえて言葉をかけようとするなら、人はそんな言葉しか発せられないからです。そしてそんな「美しくも何も語らない言葉」を浴び続けることは、彼を途方もない孤独に陥れます。「美しくも何も語らない言葉」は、その人の周りに、ガラスみたいに透明な、けれど破れ難い障壁となって残ります。そして「彼」が、論理(ことば)でもって自らを証明するという、途方もない企てを始めるのは、このような時なのです。

8.実践篇−創作文を書く(その2)


 有名な小話なので、多分お聞きになったことがあると思います。
 
 ポーランド人がユダヤ人に聞きました。
「どうやったら君達みたいにうまく儲けることができるんだい?ひとつその秘訣を教えてくれないか」
「いいとも」
ユダヤ人が答えました。
「でもぼくだってせっかくの秘訣を君に教えるんだからねえ」
「ちぇっ、わかったよ」
ポーランド人は、ユダヤ人の手にいくらかのお金を渡しました。
「さてまず付きの出てる晩を待つ。真鍮でできた大鍋を水で満たして、おっとこいつは井戸から汲んだ水じゃないといけない、しかもたった一度も陽の光りにさらしてない奴だ。そうしたら、そこに魚のあらを入れるんだ」
「それだけかい?」
「いいや、まだまだ。ぼくらの間に何千年も伝わる秘訣(secret)だぜ」
「ちぇっ、わかったよ」
ポーランド人はまた、ユダヤ人の手にいくらかのお金を渡しました。
「……そうしたら、鍋を火にかけ、方角を確かめる。磁石を使うといい。これは大事なことだけど、君はきっちり真南に立たなきゃいけないぜ。それから……」
ポーランド人はまた、ユダヤ人の手にいくらかのお金を渡しました。
 そんなことが繰り返され、随分たくさんのお金を渡してしまったポーランド人は、とうとう頭に来てしまいました。
「おまえの魂胆がわかったぞ!たわいもない話をつづけて、そうやって俺から金を巻き上げるつもりだな!」
ユダヤ人は満足気にうなずきました。
「ようやく分かってくれたね。ユダヤ人がどうやってうまく儲けるか、その秘訣を……」

 ポーランド人にもユダヤ人にも含む所はありませんが(別に一般人とケムール人でもよいのです)、この小話には教訓があります。そのすべてを展開して見せれば、1冊の本にだってなるでしょう。ここではそのうちのたったひとつを取り上げます。ポーランド人は、話を「終わり」まで聞けば「ユダヤ人の秘訣」が明らかになると思い込んでいたので、語りの果てに結末=真理(ユダヤ人の秘訣)があると信じ込んでいたので、「語りそのものが真理(ユダヤ人の秘訣)である」ということを見逃してしまいました。本当は、ユダヤ人の語りは、結末=結論がないので、終わることがありません。「語り続ける」ことがユダヤ人の真理(秘訣)なのですから、彼はいくらだって話を続けるでしょう。ポーランド人が破産しない限りは、いやその前にポーランド人がユダヤ人の「たくらみ」に気付いて怒り出さない限りは。
 そしてポーランド人にとっては、彼が怒りの中にある時には、まだ真理は明らかではありません。いまや明らかになった「ユダヤ人のたくらみ」がすなわち自分の求める真理であるということが、すなわち「真理はすでに明らかになっている」という真理が、ポーランド人には明らかでないのです。
 これは多分、偽りを(それと見極め、選び出し)排除するだけでは(怒れるポーランド人はその通りにしました)、到達することはおろか、そこにあることすら知ることのできない真理なのでしょう。けれど結局、この真理を理解するのはポーランド人の方なのです。ユダヤ人は「ユダヤ人の秘訣」がどんなものであるか勿論知っていますし、その「ユダヤ人の秘訣」が隠されていない(そしていつかあらわになるものでもない)ことを知っています。だから怒れるポーランド人にタネを明かすこともできます。けれど最初から知っているユダヤ人には(彼はきっとそのやり方を誰かかからきいて/伝承して知っていたのでしょう)、それがどんな真理であるか、つまり「偽りを排除するだけでは、到達することはおろか、そこにあることすら知ることのできない」類の真理であることが分かりません。いやユダヤ人にとってはそれは詐欺の(あるいは正当な商取引の)レパートリーに過ぎず、到底「真理」なんてしろものでないのでしょう。それを「真理」として知るのは、つまり「すでに明らかになっている真理」があるということを、そしていかにしてそれに気付き、いかにしてそれを真理として受け止めるかを、真理(ほんとうのこと)として知るのはポーランド人の方なのです。

 これで「文章読本」は、「終わり」です。読んでいただいた方に感謝します。

inserted by FC2 system