カルノー先生の進化論


 ふん、めずらしく随分集まっとるな。しかし、それもいまのうちじゃ。いつも終わりには3人と残っとらんからな。まあ、はじめるとするか。

 この宇宙では、形在るものもないものも必ず滅びる。熱死(ヒート・デス)に向かってまっしぐら、お先真っ暗じゃ。こんな宇宙の中で、自己保存のいちばんましな方法は、自己複製じゃ。他に頼っとると複写機が壊れたらどうにもならんから、自前で複写するのじゃ。

 細胞は、核酸が自己複製の環境として選んだ発明じゃ。細胞膜で区切ることで、外部環境よりはましな内部環境を手にいれるんじゃ。じゃが、細胞も飯を食わんといかん。自己複製の材料もエネルギーも「外部」から手にいれるのじゃ。「外」と「内」を区切りおったから、「外」から「内」に取り込むには、「外」を「内」に織り込まんといかん。「外」と「内」を隔てる境界は、くびれた袋の形になる。これが消化管じゃ。

 反応は、境界面で起こる。最初は、境界面の全部で反応しているが、「内」に織り込まれるようになると、そこは他とちがったものになる。くびれた袋(あるいは筒)の「内」は、織り込まれた「外」としての「内」だからじゃ。(内部化された)外部環境、これが消化−代謝系じゃ。神経−反応系は、このサブセットとして生まれおった。脳味噌は、胃袋から生まれたんじゃ。ヨガの行者が皮膚を鍛えるのは、胃腸が折り畳まれた皮膚であり、脳味噌のひだひだがさらに折り畳まれた皮膚じゃからじゃ。

 一番、単純な神経−反応系をそなえたのが、デカルト・オートマトンじゃ。こいつは刺激−反応だけのオートマトンで、いわば行動主義者の夢じゃ。じゃがこれは夢にすぎん。なんとなれば、デカルト・オートマトンは「内」を、したがって「外」を持たんからじゃ。デカルト・オートマトンであるような「亜生物」は、情報とエネルギーの流れ(淀み)にすぎん。じゃが、生物の神経系は、さらに余計な機能が加わったグレイク・オートマトンじゃ。胃袋から生まれたことから分かるように、それは表象(内部記憶)を持っとる。(内部化された)外部環境を、いや、(内部化された)外部環境だけを持つように、神経回路はループになっとる。これが「現実を幻想の一つとしてしか感知しえない」ハードウェアの根拠じゃ。

 そしてその表象力があるしきい値を越えると、知的な要素を構成するようになる。ここがフッサール・ポイントじゃ。さらにそれがチョムスキー臨界にまで達すると、記号操作=言語が生まれよる。

 さて、フィッシャーいう男が、エントロピー増加則にも匹敵するとほざきよった「自然淘汰の基本定理」いうのがある。「進化において、マルサス係数は単調増加する」というものじゃ。マルサス係数いうのは、種の淘汰値、集団平均適応度のことじゃ。この「定理」が眉唾なのは、それぞれ異なった環境におる生物の適応度など、測りようがないからじゃ。それぞれの環境をどう評価するんか、それから生物の適応度を個体の生存率だけで測っていいのか(だったらたくさん子供を生んでちょっとしか残らん奴は、少ししか子供生まんやつより適応しとらんことになる。じゃがゴリラは絶滅の危機に瀕しておるが、ゴキブリは核戦争でも生き残ると云われとる)、そういう問題じゃ。「律儀ものの子だくさん」いう諺もある。

 その測りようのないマルサス係数を測定するために、「試験管内ダーウィン進化」という実験をシュピーゲルマンという男がやった。人工的で単純な環境の中で、これまた単純なRNAの分子進化のプロセスを追ったんじゃ。これは核酸でやる実験もある。化学反応動力学が突然変異確率wijだけに依存する自己複製系(これを理想ダーウィン系という)で、全核酸数が一定という淘汰圧をかける。つまり合格定員がある選抜試験じゃな。これを繰り返して、いったい核酸がどうなっていくかを追跡するんじゃが、突然変異確率wijというのは種類iの核酸が種類jの核酸に変わる確率じゃが、種類iの核酸が種類iの核酸自身に変わる確率wiiと書ける。ある程度時間が立つと、最もwiiの大きい種類iの核酸が試験管内に最も多くなる。この時、種類iの核酸のマルサス係数はwiiだとするんじゃ。

 マルサス係数の分布曲面は、一番適応しとる種(原種)を中心とした「くぼみ」を形作る。原種から離れた変種ほど、マルサス係数は低い。突然変異の繰り返しは、ますます数多い、ますます原種から離れた変種を生み出していくが、この「くぼみ」の、一番底へ落ち込もうとする力が、変種を生む力と拮抗して、種のアイデンティティを保つ訳じゃ。ポテンシャル場に置かれた物体は、自由エネルギーを最小にしようとして、低いところへ落ちる。くぼみへ転がっていく。同じように、自由淘汰値を極大にする傾向が、突然変異の力に逆らって、種としての自己同一性を保っている。つまり、現存する種は、ローカルにみれば、皆マルサス係数を極大化しとるんじゃ。「自然淘汰」は、種の進化より前に、種の固定に働くのじゃよ。

 ところで、突然変異いうんは、結局は核酸(DNA)のコピーミスじゃ。核酸複製機械の性能は同じじゃから、DNAの量(情報量)が多いほど、コピーミスが起こる確率が高くなる。つまり自己複製が困難になる。核酸複製機械による「遺伝可能」なDNA量には限界がある。いわゆるC値のパラドクス、両生類の方がほ乳類、いわんや人間なんかよりも、DNAの量(情報量)が多いの一因がこれじゃ。

 さて、このシュピーゲルマンはアポロ計画(人を月面に送る計画じゃ)の成功した直後にこんなことをいっておる。「つい数年前まで、なぜDNAが人間を発明したのか不思議に思えたもんだ。だが今やその理由は明らかである。地球以外で自己複製ができるかどうか試す機械をDNAに与えるために、人間は発明されたのだ」。科学者が時代に腰を振ってものを云う好例じゃな。むしろこういうべきじゃろう。「遺伝可能なDNA情報量の飽和を乗り越えるために、つまり細胞外部記録装置(記録保持・伝達手段)を獲得するため、記号操作=言語系は発明された」のじゃと。したがって、いずれ誰かが、この膨大な情報を「書き写」さんといかんようになるじゃろう。 inserted by FC2 system