境界代数

とりあえず2つ、いや3つの記号を呼んでこよう。i:私=観察者、():境界=世界、そして  :ブランク(空隙;無)である。

[0]
 「世界」とは、境界により境界づけられたもの、をいう。記号()は、境界の図式であり、また包含関係の図式でもある。
 境界は内部と外部を区別し、世界は内容(内部)を「持つ」

[1]
「世界」は、明示的でないにしろ、「観察者」を必要とする。というより、「世界」「観察者」は相補的である。したがって「世界」は、「世界」「観察者」の並置へと「展開」される(あとにまとめられるように「世界」と、「世界」「観察者」の並置は、同値(イコール)である)。

()→i()

矢印を、逆の方から(つまり左辺から右辺へと)読むこともできる。「観察者」が世界を観察するのは、「観察者」が世界の外にいるとき、そしてそのときだけであることに注意しよう(「観察すること」「観察者」は同値である)。「観察すること」(=「「観察者」が世界の外にいること」)が、世界を実現させる。

i()→()

上記のことは、

i()=()

という等式でまとめて表される。これを「観察者・観察行為の公理」と呼ぼう。

[2]
一方、世界の中にある者は、世界を観察することができない、言い替えれば「世界」として(境界により境界づけられたものとして)観察するものをもたない。世界の中にある者を、「参入者」(あるいはもっと卑近に「体験者」)と呼ぼう。「参入者」は観察しない、という命題は次のように書かれる。

(i)=

含意を吟味するなら、次のことがいえるだろう。「自分以外の何ものもその内に存在しない世界の中にある者」(この表現は左辺より得られる)は、孤独である。つまり「何も見ること(もの)がない」(この表現は右辺より得られる)。
そして右辺より左辺を見れば、この等式が「無」一般の形式を与えていることに気付くだろう。「無」とは、参入者の世界参入の形式である(華厳経 火宅の譬を参照せよ)。
ここであらゆる「観察者」もまた、世界の内にあるのではないか(何故なら、世界の外にあるものなどなにもないのであるから)と問うものがあるかもしれない。たとえばそういう人は、

i()

という表現は、厳密には

(i())

と書くべきである、と主張するだろう(もっと厳密には((i()))、もっともっと厳密には(((i())))。A.ビアス『悪魔の辞典』コギト・エルゴ・スムの項を参照せよ。→「我を思う、故に我在り」は、厳密には「『我を思う』と思う、故に『我在り』と思う」、もっと厳密には「『「我を思う」と思う』と思う、故に『「我在り」と思う』と思う」……以下同様)。
 だが、繰り返しになるが、「世界」「観察者」を必要とする。というより「世界」「観察者」は相補的である。i()をさらにカッコでくくる(つまり「世界」内存在と見なす)ためには、その外側に観察者iが不可欠である。あるいは同じことだが、ある世界の中に在る者は、その世界を観察することができない。したがってその世界は(世界の中に在る者にとって)「無い」。これが最外境界が「書かれざる囲い」である理由である。

(i)=

この等式を「参入者・世界参入の公理」と呼ぼう。

[3]
観察は、体験ではない[i()≠(i)。上記二つの公理より]。
ところで、我々は、「己が体験しているということ」を観察することができる。物語の正しい(聞き手でなく)読者は、その「世界」に没頭しながらも、ページを捲ることを忘れないだろう(彼は自分が「読んでいる」ことを自覚している)。

i(i)=i()

いつものように右辺から左辺をみれば、「観察者」は自らが観察している「世界」(対象)に自らを「埋め込む」ことができる、ということがいえる。言い替えれば、自らが「体験している」ということを観察(自覚)することができる。これが仮想現実の存在論的根拠である。「観察者」が観察する「世界」(対象)とは、「観察者」自らがが内在する/あらかじめ「埋め込まれている」はずの世界より、「一つ下層なレベル」にあることを確認せよ(ただし最外境界消去の原則から、「埋め込まれている」はずの世界は書かれない。ここにこの等式が公理として要請される理由がある)。「下層」な現実が、それ故に「仮想現実」と呼ばれるのである。

したがって、この等式を「仮想現実の公理」と呼ぼう。

[4]
3つの公理から導出される帰結を一つ紹介しよう。
我々がよく知る代数がそうであるように、我々の境界代数にも「代入」という操作が許されることを確認する。

「観察者の公理」よりi()=()……式1
「仮想現実の公理」よりi(i)=i()……式2

式1と式2より
i(i)=i()=()
∴i(i)=()……式3

「体験者の公理」より(i)=    ……式4

式3に式4を代入すると
∴i=()

私(観察者=参入(体験)者)は、一個の世界(境界)である。

cf.「主体は、世界のうちに属するのでない。主体は、世界の境界なのである」(論理哲学論考5.632)

[5]
境界代数は、論理学の変奏(ヴァリエーション)でなく、存在論の算法である。

[6]
独我論(solipsism)、あるいは「すべては私の内にあること」について。

i=()……「私は一個の世界(境界)である」

独我論の要請は、「私が一個の宇宙(境界)である」だけではなく、「私が最大の宇宙(最外の境界)である」ことをも要求する。
最大宇宙=最外境界によって、すべての宇宙(境界)は内包される。

しかしこれはラッセルのパラドックスを召喚するだろう。「すべての集合(宇宙)を含む集合(宇宙)」
このパラドックスに対するラッセルの対抗処置がロジカル・タイピングである。これは端的に「仮想世界の公理」の否定である。もはや「観察者」は自らが観察する「世界」(対象)に、自らを「埋め込む」ことができない。しかしこの「仮想世界の公理」こそが多層レベルの「世界」を可能としたことに注意せよ(観察者のいる系では、ロジカル・タイピングを犯すことなしにロジカル・タイピングすることはできない)。

ラッセルの対抗処置は、独我論のみならず「私は一個の世界(境界)である」こと/そして当のロジカル・タイピングまでも「解消」する。

ここで最外境界が「書かれない」理由を思い起こそう。「世界」「観察者」、つまり境界()と主体iは、相補的である。なるほどすべては、全宇宙の内でおこなわれるに違いないが、全宇宙の外には「何もない」以上、全宇宙(最大宇宙)の境界(最外境界)と対になるべき主体iはない。全宇宙(最大宇宙)の「観察者」は、全宇宙(最大宇宙)の外に立たなければならないが、彼の踏台はあり得ない。故に最大宇宙=最外境界は、観察されない。これが最外境界が「書かれない」理由であった。
しかし一端書かれさえすれば、あらゆる境界()はすぐさま、「観察者の公理」によりiを召喚する。つまり()はいつでもi()と取り替え可能である〔()=i()……「観察者の公理」〕。

「宇宙」とは、「境界づけられた宇宙」であり、「対象化=観察された宇宙」である。「対象」は、「観察者」を陰伏する。

最外境界がi=()であれば、その観察者=境界は、自らを対象とする「観察者」であろう。
否、いずれにせよ、最外境界は自らを対象とせねばならない(他に自らを対象化=観察するものがないから)。つまり最外境界は自身の観察者であり、また自身の対象である。最外境界がi=()であることが、最外境界の(存在の)必要にして十分条件である。これはラッセル・パラドックスのポジティブな側面であることに注意せよ。
 したがって全宇宙の存在規定は、独我論のそれより「強い」ことがあっても、「弱い」ことはあり得ない。独我論は存在論の下限である。

[7]
諸宇宙(三千世界)が、少なくとも1つのi(私;自我)から展開される様を見よ(あるいは「宇宙」の回帰関数)。
()=i()……「観察者の公理」に、「観察者の公理」自身を繰り返し代入せよ。

i=()=i()=i(i)=()(())=i()(i())=i(i)(i(i))=i(i)(i(i))(i(i)(i(i)))=……

[8]
例えば次の命題を検討せよ。  、、         、、
「自らが歴史の内の存在であると知ることが、歴史の内に在ることに他ならない」
 これは境界代数によって次のように表せよう。
i(i)=(i)
 この表式は検討に値する(命題は恣意的に選ばれた訳ではない)。たとえば「世界−内−存在」の表式や、「ルールに従うこと」(現にルールに従うことだけが、そのルール(にしたがうこと)を理解していると示す唯一の方法である)の表式を考えてみよ。

上記の表式は、
 その左辺:
 i(i)=i()……「仮想現実の公理」より
     =()……「観察の公理」より
 その右辺:
  (i)=  ……「参入(体験)の公理」より
したがって右辺≠左辺。これは矛盾である。

帰謬法に従い、最初の命題を葬り去るべきだろうか?途方にくれる前に、我々には思い出すべきことが多くある。

「観察」はどんなに素早くとも、「体験」に遅れてやってくる。こうも言い替えられよう。「体験」の承認(何かを「体験」として「観察」すること)は、必然的に「体験」に遅れをとる。
 したがって「体験」(i)「体験」の承認i(i)とは、単に等式で結ばれてよいものではない。それは事後的関係→でもって結び付けられよう。こんな風にだ。

(i)→i(i)→(i(i))→i(i(i))→(i(i(i)))……
体験→「体験」の承認→「体験」の承認」の体験→「体験」の承認」の体験」の承認……

そしてこの系列のそれぞれが、__ブランクと()境界にそれぞれ「圧縮」できることを確認しておこう。

(i)=__ ……「体験者の公理」より
 ↓
i(i)=i()=()
 ↓
(i(i))=(())=(i)=__ ……上の式の展開より
 ↓
i(i(i))=i(i())=i(())=i……上の式の展開より
 ↓
(i(i(i)))=(i)=__ ……上の式の展開より

以下同様……

つまり、__ブランクと()境界が、相互に交替しながら継起する。

i(i)=(i)は、振動する無限系列のコンパクトな表式(発振機)に他ならない。 inserted by FC2 system