ラッセル × ゲーデル

数学の哲学について



 数学や論理学についての規約主義が信じられている間は、ゲーデルの「プラトニズム」など、検討される余地もなかった。数学的対象が我々の私意や理論とは無関係に(我々が知ろうと知るまいと)「客観的に」実在するなどということは、たとえ数学者の「実感」としてはそうであっても、そこに「数学の哲学」が成立するなんてことは考えられもしなかった。論理実証主義者たちが「形而上学」と切って捨てたどれよりも、すごぶるナンセンスであり、ある種の「信仰」告白をすませ色眼鏡で見られることも辞さない覚悟なにには、口にすることだってはばかられる「神学上の命題」と思われたのだ。
 論理実証主義者は、武器を持っていた。あの偉大なる先達たちラッセル&ホワイトヘッドが、数学の体系を組み立ててみせたあの方法だ。我々の直感的対象であるかにみえた、自然数や単純な演算でさえも、彼らは「一から」作ってみせた。我々は記号使用の規則にしたがって、いまや全数学体系を構成することができる。数学的対象はあらかじめ存在している必要などない(余計なことだ)。むしろ規約の運用の結果(それは数学を行うこと、組み立てることだ)、はじめて浮かび上がってくるのが、数学的対象なのだ。
 ところが、規約は完全には定義されない。記号を他の記号で定義することはできる。それがラッセルたちがやった仕事のすべてだ。けれども全部の記号をそのようにして、定義することはできない。他の定義には用いることができても、それら自身は定義されない「原初記号」を我々は受け入れなければならない。受け入れるだけでなく(いや、「受け入れる」ということがそれだけでもう)、その運用法を定義された訳でない「原初記号」の使い方を我々は暗黙のうちに知っていなければならないのだ。つまるところ、規約主義は原理的に貫徹することは不可能であり、数学を構成してみせようという時に、あれほど嫌っていた直観や飛躍を必要としてしまうのである。我々は「一から」始めることはできても、「ゼロから」始めることはできないのだ。
 規約主義もまた、自らの足だけでは立つことができず、最終的にどこか論理や規約の外のものに頼らざるを得なかった。なれば、ゲーデルの信じた「数学的対象のプラトニズム」を、我々は「天下り的」と笑うことはできなくなる。規約主義にしろ、何にしろ、我々の作る論理体系は、「天下り的」である他ないからだ。
 たとえばゲーデルの立場からすれば、ラッセルがパラドクスに対処するため採用したロジカル・タイピングは、無用の長物に見えるだろう。いわゆる悪循環原理を採用する根拠は、数学的対象を「構成」しようとするラッセルにはあっても、はなっから数学的対象は実在するというゲーデルにはない。ゲーデルにいわせれば、ラッセルの対処法は、あまりに構成主義的な偏見に満ちている、ということになる。
 我々はまたしても、哲学者たちが長年に渡って経験し、19世紀の化学者たちが「分子論」を受け入れる際に投げ込まれた、唯名論と実念論の戦いの最中にいる。かつて化学者のある者にとっては、「分子」なるものはただ理論を簡便にするための「便宜」にすぎなかったし、またある者にとってははっきりとした「実在」にちがいなかった。化学者同士の戦いに終止符を打ったのは、ブラウン運動を解明する理論と実験であった。
 数学的対象は、数学記号についての規約の運用によって構成されるにすぎないしろもの(ようするにコトバ)なのか、あるいは我々の数学的言説とは何の関係ももたない(少なくとも言説に影響されたりしない)形で客観的に実在するのか。数学(論理学)に関して、我々はこれらの考えのどちらを(あるいはもっと多くの選択肢からどれを)選ぶのか、どれよりどれが優れていると判断するのか、についての決定的根拠(ブラウン運動の理論や実験のような)を持っていないし、また持てそうにない。逆にいえば、このような事情の自覚こそ、真正な意味で「数学の哲学」のはじまりなのである。


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