ヒルベルト × ゲーデル

数学の基礎


 ゲーデルという人は、「数学(の諸命題)は、記号のアンサンブル(集まり)」という見方に乗っかって、「記号の集まり」に何ができて何ができないのかを考えました。「数学(の諸命題)は、記号のアンサンブル(集まり)」という見方は、ヒルベルトという人がはじめたものです。
 実のところ、古代ギリシャから19世紀までの長い間、「公理的に構成」されていたのは、「数学」の中でも、いわゆる「ユークリッド幾何学」たったひとつだったのです。他のは、17世紀に登場した新参者の微分積分はもちろんのこと、「数」学というくらいなのに、数論も、代数学も、みんなみんな「公理」も「基礎付け」も何もありませんでした。「数学」は全然「幾何学」とは違っていたのです。
 「数学」が、「幾何学」みたいに公理化されるのは、ダランベールという人が「幾何学のスキャンダル」と呼んだ「平行線の公理」問題を巡って、「ユークリッド幾何学」という神殿に最後の一撃が加えられた19世紀半ば以降のことです。「打ち倒された」のは、ユークリッドが彼以前300年間に為された仕事をまとめ上げた成果ではなく、それに対する人々の盲信の方でしたが、とにかく打ち倒された「幾何学の夢」が、「数学」に「公理化の呪い」をかけたのかも知れません。実際、その後の「数学」には不吉なことが続きました。「完璧な体系」なはずなのに、「基礎付け」を進める度に、すべてを台無しにするかのような「パラドックス」があちらこちらで起こりました。「パラドックス」を封じ込めようとする企てが、また別の「パラドックス」を召喚してしまうことも度々でした。
 ヒルベルトはそういうのとは全然別の方法で、「数学の危機」に対処しようとしました。つまり「数学」の内で「パラドックス」と泥試合を演じるのでなく、「数学」を遠くから眺める方法です。ヒルベルトは、従来のように「パラドックス」を封じ込めるためには、「数学」を去勢することも辞さないという今までのやり方が嫌だったのです。それにそういうやり方では、ひとつ「パラドックス」を潰すたびに、また別の「パラドックス」が出てきて、ますます「数学」を骨抜きにしてしまうことになりそうだったのです。
 ヒルベルトの方法は、「数学」から、もうそれが何か意味があるようには思えないくらい「遠く」へと退き、そこから「ただの記号の列」を見張ろうというものです。記号列の作り方と、記号列同士の関係を律するルールだけは定めておきます。そしてその「記号取扱いのルール」に従う限り、ある「禁じられた記号列のパターン」(パラドックスのパターンです)が出てこない(どうしても作れない)ことを証明しよう、というのがヒルベルトの提案でした。最初は、「数学」には自由にやらそう、そして困ったことになったらすぐに助けて起こしてやれるように見守っていてやろう、と思っていたヒルベルト父さんは、この「証明」を一端やってしまえば、「数学」は転ばない(パラドックスは起こらない)という「保証」が得られるのだから、目を離しても大丈夫だと考えたのです。「数学」を遠くから眺めるのは、「数学」を「お前はもうどこから見ても心配ない」と、一人で歩いていかせるための準備だったのです。
 けれど「意味があるようには思えないくらい遠くへと退く」ことには、思わぬ副作用がありました。そこでは「数学的対象それ自体が端っから意味を持っているのではなく、それらの相互関係を表す命題によって意味づけられる」のであって、だから「点」とか「直線」とかいう数学的対象は、明示的に定義されるものではなくて、ただ命題全体によって、どういうものか決定されるのです。つまり「数学」における(命題や対象の)「意味」というのが変わってしまったのです。これまで定義とか公理とか言われていたものも、そういった「少数の命題」が体系全体を決める・支配するのでなく、逆に命題全体によってそれら「少数の命題」の含んでいた「意味」が明らかになる、あるいは「少数の命題」がどういうものかは「そこから導出される」命題全体によって逆に決定される、というのです。


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