ピタゴラス × ヘーゲル

哲学のはじまりとおわり



 全面的には信用のおけないディオゲネス・ラエルティオスによれば、最初の哲学者はピタゴラスその人である。彼はピロソピア(哲学)という言葉をはじめて用い、また自らピロソポス(哲学者)であると語った。より信用のおけるキケロが、ほぼ同趣旨の証言でもって、ディオゲネス・ラエルティオスの所説を補強してくれる。

 ピタゴラスは、あなたは何者か、いかなる技術を身につけていたのかと問われ、「私はピロソポス(哲学者)に過ぎない」と謙遜にも聞こえる仕方で答えた。しかしそれは耳新しい言葉だった。質問者であるレオンは聞き返す。ピロソポス(哲学者)とはいかなる者か?ピタゴラスは人生をオリンピック(祭典)に例えて返答する。「その祭典には、ある人たちは競技をするためにやってくる。ある人たちは商売のためにやってくる。しかし最もすぐれた人たちは観客としてやってくる。人生においてもある人たちは名誉や利益を求めているが、哲学者(知を愛する者)たちは、真理を求める者なのです」。
 では、何故ピタゴラスの答えは、謙遜を帯びていたのか。それは哲学者(ピロソポス)が知者(ソポス)とは異なるからである。ラエルティオスは、同じ場面の別の伝承でもって、その訳を述べる。ピタゴラスはレオンにこう答えた。「神以外に誰も知恵のある者はおりません。その営みが知恵(ソピアー)と名付けられるに値する者は、精神的な完成に達しているだろうとして、知者(ソポス)と名乗るでしょうが、それは性急(あるいは不遜)というものです。哲学者(ピロソポス)とは、いまだ知恵を熱心に希求するもの、従っていまだ知恵(ソピアー)を獲得したとはいえず、知者(ソポス)とはいえない者のことを言うのです」。

 観相的知の定立と、人間の知の限界を見定めた者として、なるほどピタゴラスは最初の哲学者だった。そしてやがて、哲学を終わらせようとヘーゲルが登場する。
 ヘーゲルは哲学の完成を企図する。つまり、彼はもはや哲学(知への愛)にはとどまらないだろう。哲学が知への愛(希求)である以上、哲学は未だ知を欠いている(欠いているが故に希求する)。哲学が完成するとき、ピタゴラスが据えた哲学というものが完結する。すなわち、絶対知の高みにo
いて、哲学者(ピロソポス)が知者(ソポス)となるのである。


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