ライプニッツ × マルクス

ルプレザンタシオンについて


 ライプニッツは世界はモナド(単子)と呼ぶものから出来ていると考える。
これは原子に似ているが原子ではない。原子論がアトムと呼んだものは物質の最小単位、粒子のことだが、ライプニッツの言うモナドは精神なのである(→デモクリトス対ライプニッツ)。だから、モナドは世界を、つまり、他のモナドたちを認識する。逆に、世界は、それぞれのモナドに集中している。モナドたちはそれぞれがそれぞれの仕方で世界を表象し、そのことによってそれぞれが世界の中心である。
 モナドがそれぞれに世界の中心であること、これはモナドが自発性を持つことに根拠を持っている。モナドは単に世界を受動的に認識しているのではなく、能動的に世界を表出=表現している。だからモナドは「宇宙の生きた鏡」だとライプニッツは言う。単に「宇宙の鏡」ではない。「生きた鏡」だからこそ、宇宙を、世界を、映し出せるのである。
 だから、世界は、世界を映し出しているモナドの集合であり、そのモナドの集合である世界を、それぞれのモナドは映し出している。こうした[入れ子構造の]立場を、一昔前のニュー・エイジ・サイエンスは評価し、モナドを「ホロン」と呼んだ。モナド=ホロンは全体の部分であり、同時に全体を映し出している。モナドの「表象(ルプレザンタシオン)」は、同時に「代表(ルプレザンタシオン)」でもある。だから、すべてのモナドが世界の鏡=代表である。中心は至るところにある。
 しかし、それぞれのモナドが中心として世界を「代表(ルプレゼンテ)」するということ、このことが可能なのは、その「代表」が「表象」である限りにおいて、即ち、観念的な表現である限りにおいてである。例えば、マルクスは、「代表」ということが、ライプニッツ的な「表象」でありえないような事態に出会い、観察した。即ち『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』である。
 マルクスが、そして2月革命によって普通選挙を実現したフランス共和国が出会ったのは、王を廃した人々が、再び皇帝をその頭上に抱く光景、誰もが自分たち「それぞれの代表」を選ぶことができるその制度の下において、「我々すべての代表」として、皇帝という中心を出現させてしまうという事態だった。
 かつての身分代表制議会は、それぞれの身分の「代表」を議会に送り込む制度だった(たとえタテマエであっても)。1848年の二月革命が実現した普通選挙は、この「代表」という関係を静かに一変する。誰もが、誰もを選ぶことができる(原理的に)。そして、パン屋の「代表」は、もはや「パン屋」ではない。マルクスは言う「民主派の議員たちはみな商店主であるか、あるいは商店主を熱愛している、と思い描いてもいけない。彼らは、その教養と知的状態からすれば、商店主とは雲泥の差があり得る」。
 では、何故、「民主派の議員」は「商店主」を「代表する者」であるのか。
それは「議会」において、「商店主」の立場を「代弁」するからだ。議会は、言葉の場であり、かつ議会だけが全国民を「代表」する。「商店主」は(他のものももちろんそうだ)、自分たちの意志の媒介者(議員)を、媒介物たる言説(ことば)について選ぶ(代表関係の恣意性が、このような言葉による選択を可能にする。言うまでもないことだが、そのことは代表関係をなおさら恣意的にする。人はいつも「言葉では何とでも言える」からだ)。「代表される者」たちは、ただ言説(ことば)の違いから、自らを「代表する」者を選ぶ(シニフィアン−シニフィエ。→マルクス対ソシュール)。議会は、言葉の場であり、かつ議会だけが全国民を「代表」する以上、そうするより他ないのだ。
 「代表される」者と「代表する」者との関係は、今やなんら類似的でもましてや必然的でもなく、まるで恣意的である。加えて、ここにはもうひとつの逆転がある。モナド(個々のもの)は、何ものかを(宇宙全体を)表出=代表するものだった。ところが、個々の選挙民たちは、「選択する」者であっても、今は代議員によって「代表される」者にすぎない。「代表する」のは、もはや個々のものではない。ルソーが警告したのは、まさしくこの事態だった。「人民は代表者を持つや、もはや自由ではなくなる」「主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない」(『社会契約論』)。個々のモナドが全宇宙を表象するように、個々の人民が一般意志を表現・具現(代表)している、とルソーは考える。けれどももはや個々の人民は、表現するのでなく、(自分たちに代わって代表してくれる者を)選択せねばならないのだ。
 まだしも自分たちそれぞれの生活の利害や境遇や階級に応じて「言説(ことば)という代表者」を選ぶかわりに、何者でもない(もちろん、パン屋でも床屋でもない)ひとりの男を、すべて「代表」する者として選択する。直接投票で選ばれた大統領こそ、個々すべての人民を、つまり個々の人民すべてが具現・表現していたところの「一般意志」を、まるで「代表する」者のように現れる。議会に送り込まれる自分たちそれぞれの生活の利害や境遇や階級の違い(それは議会での、言説(ことば)の違いに置き換えられていた)は、「代表された一般意志」の前に払拭される。大統領ルイ・ボナパルトは、そうした「違い」の代表でなく、「我々すべて」の代表なのだ。


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