プラトン × アリストテレス

存在論と倫理学


 プラトンが提出したイデア論というものには色んな意味があるが、その中でも重要なのは、善の本質の議論に関わっている。プラトンが言うには、イデアというのは我々が普通に目で見ているものの本体であり、例えば机のイデアなら、それは最も机的なものであって、いわば机そのものである。それぞれの机は、この机のイデアがあってこそ机が存在するのだ。だが、そのイデアの最高のもの、イデアのなかのイデア、イデアの王様こそ「善そのもの」であるべき「善のイデア」なのである。実際、プラトンのイデア論を導く切っ掛けになったソクラテスの対話の中で、ソクラテスが求めたのもやはり、善、正義などの倫理的なものの本質だったのである。
 だがアリストテレスはイデア論を批判し、それが形而上学的な意味で矛盾しているとし、23ヶ条の批判を突き付け、また、倫理学的な探求の中でも、善のイデアを斥けている。アリストテレスにとって存在するもの(実体)は個別的なものであって、イデアのような普遍的なものではないのである。善のイデアというものがあると考えてみよう。善というのはより善いとかより悪いとかいった「関係」にも関わるものではないか。そして、関係というのは実体の後から出てくるものなのだから、善は実体ではない。だから善はイデアではない、と。
 しかしアリストテレスは、倫理学研究の中では、イデアの問題については多くを語らない。アリストテレス自身述べるように、彼にとってイデア論とその批判の問題は形而上学の問題であって倫理学の問題ではないのである。つまりアリストテレスは、形而上学=存在論と倫理学とを峻別しているわけである。
逆に、こうしたアリストテレスの観点からすれば、プラトンのイデア論とは、哲学と倫理学の混同の産物なのである。
 だが、無論のことそれは、アリストテレスの立場から言えることであって、プラトンにはそんなつもりはない。プラトンは、存在と倫理とが切り離せないような場所でものを考えたのである(→ソクラテス対プラトン)。プラトンにとって、存在そのものが価値を内在させているのであり、「有る」ということそのものが価値と切り離せないのである。だからこそ、もっとも実在的なものがイデアであり、その最高峰が善のイデアなのである。プラトンはそうした善のイデアを具体的に規定することはできなかったが、それはある意味で当然でもあった。この意味で彼は、極めて理想主義(Idealism)的であり、観念論(Idealism)的であった。
 その弟子として出発したアリストテレスだが、彼はしかし、我々の観点から観ても驚くほど現実的である。アリストテレスは言っている。
 「機織や大工が『善そのもの(善のイデア)』を知ったからといって自分の技術に何か利益があるだろうか?」 無論何の利益もない。医者にしたってそうだ。医者は確かに「健康」を目指すのであり、目指す以上はそれは「善」の一種に違いない。だが、その「健康」とな何だろう?「それは人間の健康である、いや、むしろ、あの人この人の健康に他ならないのではないかと思われる。」 アリストテレスの現実主義は、こうした個別的なケースを想定した上でのものである。だから倫理学研究では普遍的な善を探求すべきだとしても(うでないとそもそも倫理学が成り立たない)、それは極めて大雑把なもの(だから、本当の意味での学エプステーメーではない)であって、本当は個別のケースこそが重要なのである。


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