アリストテレス × スピノザ

それ以外の仕方


 あるアリストテレス学者は次のように書いている。
 「『倫理学』が『許容存在to endechomenon』に関わる『実践学』であることがアリストテレスの倫理学を根本的に特徴付ける。more geometricoによるethicaの建設ほどアリストテレスの意図に遠く、また、アリストテレスにとって無教養の露呈であると見なされる企図はない」。
 「more geometricoによるethicaの建設」。名指しはされていないものの、これは明らかにスピノザの'Ethica Ordine Geometrico demonstrata'(「幾何学的秩序によって証明された倫理学」)を指すものに違いない。なぜスピノザの『エチカ』が「アリストテレスにとって無教養の露呈であると見なされる企図」なのだろうか。これを確かめるためには、アリストテレスのendechomenonとouk endechomenonの区別を知らなければならない。
  アリストテレスは学問分類を幾つか提出しているが、その一つは理論テオリアと実践プラクシスの区別である。理論とは見ること(観想)であり、実践=行為と区別される。しかし、理論と実践の区別はアリストテレスにとって、天下り式に、あるいは思い付き的に提出されたものではない。我々は気軽に「理論と実践」などと言うが、アリストテレスはそれを自分で考え出さねばならなかったのである。
 学問としての理論が成立するためには、ぴたっと決るような「これ以外にありえない」というものごと(これ以外にありえない→必ずこうにちがいない→必然性)がなければならない。しかし、世の中「これ以外にありえない・必ずこうにちがいない」という事柄ばかりではないのではないか。つまり、「これ以外の仕方でもありえる」もの、偶然とも可能とも言ってよいものがあるのではないか。
 例えば、私は今糖尿病である。これは、私に糖尿病を発現させる遺伝子があり、また、カロリーの高いものを食べすぎたからであるに「違いない」。これは学問的認識である。だが、カロリーの高いもの、甘いものを私は大好きだが、これをもう少し我慢しておけば病気にならなかった「かもしれない」。これは既に学問的認識ではない。それは実践の問題だ。
 こうして、「必ずこうである」ような、「これ以外にありえないものごとouk endechomenon」と、「ひょっとすると違ったかもしれない」ような「これ以外の仕方でもありえるものごとouk endechomenon」の区別、そこから理論の学と実践の学の区別をアリストテレスは設定するのである。
 数学(幾何学)を始めとする学的認識は「これ以外にありえないものごとouk endechomenon」を対象とする。だが、「これ以外の仕方でもありえるものごとouk endechomenon」には学問は成立しない。それはまさに実践の学の対象であり、倫理学の対象である。プラトンすらなしえなかったこの区別、この峻別の緊張にアリストテレスの学問分類は成り立つ。
  こうして、「倫理学」に幾何学を持ち込むかに見えるスピノザの企ては、アリストテレスの折角の区別を台無しにしてしまう。まさに、「more geometricoによるethicaの建設ほどアリストテレスの意図に遠く、また、アリストテレスにとって無教養の露呈であると見なされる企図はない」のである。
実際、スピノザの考えるように、全てが必然性に従い、すべてが「これ以外にありえない」ことばかりなら、どうして「倫理学」が成り立つだろうか。
 アリストテレスの倫理学、それは単にアリストテレス個人の倫理学なのではない。むしろそれは、少なくとも上の区別を提出したことによって、全西洋倫理学史を支えるものでもあった。スピノザはその「無教養さ」を武器に、全西洋倫理学史に挑戦し、あるいは、今も挑戦し続けている。


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