ベルクソン × 木村敏

純粋な持続は可能か


 ベルクソンは二種の時間を区別する。
 例えばアナログ時計が表すような時間は時間に等間隔の刻みをほどこしている。だが、ベルクソンは、時間に刻みなどあるのだろうかと問う。むしろ、等間隔に刻むことができるというのは空間や物質の性質、「もの」的な性格なのではないだろうか。だとすれば、時計が刻む時間とは、実は、「空間化された時間」でしかない。だから、「本来の」時間とは、そうした空間的な要素を一切排除したような純粋な時間の流れ、即ち「純粋持続」に他ならない。それは分割することも、固定することもできないものである。我々はそれを「分析」することはできない。我々はそれを「直観」するのだ。「分析」は科学の仕事であって、哲学のやるべきことは「直観」に他ならないのである。純粋持続は純粋である以上、いかなる夾雑物も含まず、したがって「直観」も極めて「単純」なものでなければならない。
 ベルクソンは「哲学的直観」を論じた講演の中で言っている。
 「哲学の本質は単純の精神であります。……哲学するということは単純な行為なのです。」 なるほどその通りである。しかし、と木村敏は考える。ベルクソンのような哲学者ではなく、精神医学者であり臨床医である彼は、果してそんな「純粋」なものが「実感」できるのだろうか?と問う。ベルクソンの言うような「純粋持続」には何のひっかかりもないではないか。その通り、ベルクソン自身が言っている。「哲学とは記号なしで済まそうとする科学である。」 なるほど、哲学はそれでいいかもしれない。だが、我々に実感できない純粋な時間というベルクソンの考えは、ある意味で徹底していながら、同時に我々に時間の実感を与えてくれないという意味では不徹底なのではないだろうか。
端的に言おう。ベルクソンの純粋な持続とは、一種の病的な状態なのではないだろうか。
 確かにベルクソンは、時間を「もの」ではなく、「こと」として取り出したのだと言える。しかし、全く純粋な「こと」を我々は捉えることができない。
それは理念ではあっても、自然な実感を与えてくれない。精神病者はむしろそうした抽象的な時間に苦しんでいるのである。むしろ、「こと」はある種の「もの」性との関わりのなかで「不純」となることが必要なのではないだろうか。
 こうして木村敏は、ベルクソン的な純粋持続ではなく、「もの」と「こと」との差異としての時間という観点を提示する(ハイデガーの存在論的差異の考えに基づく)。つまり木村は、ベルクソンの「純粋持続」に、ある種の「構造」を与えようとするのである。この「構造」を木村は、独自の用語「あいだ」として表す。「自己」は構造を持たなければ成り立たない。「自己」そのものは確かにどんな「もの」でもない。だが、全く構造を欠くのではなく、むしろ「もの」と「こと」との差異として「あいだ」に成立する。したがって、ベルクソンの哲学には「自己」が欠けているのである。ただ、そうした自己の構造は、空間的なもの、外在的な構造(ものともとのと間に成り立つ関係)ではない。この点ではベルクソンは正しかった。だが、自己は「内的な構造」を持つのである。ベルクソン的な時間は「時間」ではない。時間が成立するためには「あいだ」が必要なのである。
 だが、こうして木村は、実は、ドゥルーズによって読解されたベルクソニズムに近付いているのである。この意味では、木村のベルクソン批判は、むしろベルクソンの可能性を広げるものとなっていると言える。


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