プラトン × エピクロス

胃袋の倫理学


 アテナイが敗戦し破産し哲学についての最大の犯罪を犯して(いうまでもなくソクラテスの処刑だ)、ギリシャ民主主義が瓦解へ向かおうとする最中、プラトンは二つの方策(本当は一つと半分)を書いた。ひとつは、哲人王の統治による理想のポリスを打ち立てるという改革案(彼は『国家』を、より妥協に傾いた『法律』を書いた。それから理想国家を治める哲人王になれそうな人材を捜しもした)であり、もうひとつは、結局はうまくいかない改革案の合間にもらされた「彼岸の思想」のため息だった。人の魂は裁きのあと正義の報酬を受けるか、あるいは不正の刑罰として人間の身体であれ動物のそれであれ再び血と混乱に満ちた地上の肉体(身体ソーマは墓セーマだ、とはプラトンの言葉だ)に押し込められるだろう。プラトンは、人間のこの世で満たされぬ希望を来世に託しさえした。
 エピクロスは、プラトンのおよそ100年後、ギリシャ文明がとことん瓦解した最中に登場した。彼はもうどんな社会の集団的救済策も提示しなかった。けれども彼は絶望も諦念も勧めなかった。そして、後世の人がいう「繊細さを欠くがために、地上の幸福を求めることができる」人間であったために、迷える個々の魂とやらを彼岸に飛ばす訳にもいかなかった。
 エピクロスは、此岸にだろうが彼岸にだろうが、高い精神の王国を打ち立てようとする人々にとって、大顰蹙なことを言ってのける。「すべての善のはじめと根本は、胃袋の快楽である」。これが彼の倫理学である。多分、放縦をほしいままにするエピキュリアンと呼ばれるものは、こんなところに由来するのだろう(精神の高さをもって身体を蔑む思想がとりつくのはこんなところだ)。けれども俗に言う「快楽主義者」に対して、この「胃の哲学者」はあらかじめ釘を指す。「飽くことを知らないのは、多くの人々はそう言うのだが、実は胃袋なのではない。かえって、胃袋についての誤った臆見、すなわち、胃袋はこれを満たすのに際限なく多くの量を必要とするという臆見こそが、「飽くこと」を知らないのだ」。「身」を滅ぼすまでにどん欲であるのは、「身」それ自身でなく、「魂」の方だ。だから「胃の哲学者」は、魂のあり方、自身の倫理学を説く。
 エピクロスは、かつての樽の哲学者ディオゲネス(→ソクラテス対ディオゲネス)の言葉に対してこう言う(この時から、後に彼の庭から始まる学派は、ディオゲネスを祖とするストア派に対する一派となる)。「哲学するふりをすべきではなく、本当に哲学をなすべきである。我々がもとめるのは健康に見えることでなく、本当の健康だから」。長年、胃と膀胱の病に犯され、日に2度も吐き(それは論敵がいうような過食のためではない)、最後は膀胱結石で命を落とした哲学者の、健康についての英知は単純かつ「ささやか」だ。苦しまないこと、恐れないこと、ありもしないものに引きずり回され眩暈のうちに方向を失い悲惨に突き進まないこと。
 人を恐怖に結わえ付け、不安と蒙昧のうちに閉じこめようとするものがふたつある。
一つは死の恐怖、もうひとつは神の恐怖だ。「悪をなしてはならない。なせば神によって罰せられる」という怯えを、人は道徳や倫理と取り違えている。エピクロスは後世(とくにキリスト者によって)非難されたようには、無神論者ではない。彼は神を信じていた。彼が信じることができず、また信じるに値しないと思ったのは、神がわれわれに干渉し、害を加え得るといったことだ。「神々はまったくわれわれを必要としない。
そして我々も善行で神々の恩寵をつかむことはできない」。来世の罰や報いにいたっては、明らかに空想に過ぎない。不幸も幸福も、報いや罰とは関係がない、ただこの世の事どもによって起こり、引き起こされていく。死については、これはもはやこの世のことではない。死ねば、肉体は滅び、感覚も消滅する。感覚の消えたところに、なにものもない。あるのはいつも、空想に結びついた恐怖、死についての、いま生きている者の思惟や願望だけだ。
 エピクロスは、謂れのない恐怖を不幸の主因として、それを捨てる術を教える。彼は不幸をとりのぞこくことを述べる。それだけだ。彼の哲学が迎えることのできる幸福は、その英知にふさわしくささやか(A SMALL, GOOOD THING)だ。手に入るのは、まるで死をどうにかまのがれた人の幸福(刑の執行を延期された死刑囚のつかの間の幸福)だろう。けれどそれは、時代の絶望に対して、あるいはその絶望のなかで、「生きる手段」を求めることに夢中で、けっして生きることのない人々に対して、差し出すことのできる彼のせいいっぱいだった。エピクロスは、世の悲惨も、自らの痛みも決して忘れない。けれどそのうえで「恐怖と苦痛を除く術」を述べようという、彼の倫理は、それでも人は歓びを得ることができるし、そのために生まれたのだ、ということだ。
 「われわれは、同時に、笑ったり、哲学を研究したり、家事をとったり、その他さまざまな営みをしなければならない」(断片その1-41)


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