ヘーゲル × キルケゴール

広さと隔たり


 ヘーゲルは我々が「今ここ」で持つ直接的な認識から始まって、それへの反省を経、最終的には「絶対的な知」へと我々を導いてくれる。我々は一段一段と階段を登り、その都度危機に陥るが、やがてそこから脱出し、より高い段階へと至ることができる。そうした危機の度に我々を導き引き上げてくれるのが「我々wir」である。ヘーゲルの言う「我々」とは、ヘーゲルを読む読者である我々のことではなく、常に我々の一歩先を行き、我々がどんな苦難に陥り、どこに至るのかを知っているような導き手=先生のことである。我々の一人一人が、ヘーゲルの描いた順路を通ることによって、最終的には「我々」そのものと一致することになるのだし、そうならなければならない(ヘーゲル対フッサール)。こうして最終的に「我々」となった我々が獲得する立場が、がヘーゲルの言う意味での「普遍性」である。我々は、自分では気付かないでも、こうした「普遍性」に至る階段のどこかにいるのである。どんな「私」であっても、ヘーゲルは彼の体系のどこかにいさせてくれるだろう。そして、そこに留まるなと叱咤し、より高い境地があることを教え、そこへ高まるよう励ましてくれるだろう。
 しかし、とキルケゴールは問う。我々一人一人が「我々」そのものとなることがどうして可能なのだろうか。
 ヘーゲルの「絶対的な知」への道のりは遠い。だが、ヘーゲルの親切なところは、その道のりを少しずつに区切り、階段を作ってくれたところである。
 なるほどそうかもしれない。だがキルケゴールには、そんな階段は嘘っぱちに見えてしまう。階段があるとしても、それは一歩ずつ登っていけるようなものではなく、我々が精いっぱい足を延ばして届かないような巨大な階段があるだけだ。いや、そこにあるのは、むしろ単なる絶壁だけだ。我々はそこで途方にくれるしかないのではないか。
 ヘーゲルでは「我々」もまた親切だ。困る度に我々の前に姿を表して、我々の留まっている地点にまで降りてきて助けてくれる。だがキルケゴールが導き手として見ていたものは、そうした親切な「我々」ではなく、キリストそのものなのである。ヘーゲルの場合なら、高まってゆくにしたがって我々は「我々」そのものに近付いているのであり、いわば我々は仲間を増やして行く。全てのものが仲間になるような地点、それが「絶対的な知」の立場であり、それこそ普遍性の意味である。だが、キルケゴールは言う。我々は一人であるしかないのではないか。我々の行く先に「我々」の集合体などなく、ただ一人のキリストだけがあり、その意味で我々もただ一人でいるしかないのではないか。
 ヘーゲルも、確かに神が遠いことを知っていた。だが、一人では無理でも「我々」となって神の立場に到達し、神そのものとなることが可能なのだと考えた。だがキルケゴールは、我々と神との絶対的な遠さを知り、そこに留まる。留まらざるをえないのだと言う。キリストは神の子でありしかも人間である。キリストとは神と人間、永遠と歴史の交点に立つ存在である。歴史と永遠とが交わるなどというのは、烏丸通りと堀川通りが交わるのと同じくらい不可能である。キリストとはまさしく、本来交わり得ない平行線が交わるような地点を指すのだ。キルケゴールが「断絶」と「飛躍」を語り、「単独者」の立場を強調するのはまさにこのためである。
 改めて考えてみよう。一言で言えば、つまりヘーゲルは、距離を広さの問題に置き換えたのだと言える。「絶対」への遠さ(距離)を、「我々」の普遍性(広さ)によって克服しようとしたのである。だがキルケゴールは、そうした変換が不可能であることを説く。キルケゴールは我々一人一人の単独性を、つまり、いわば「狭さ」を知っていたのである。ヘーゲルに言わせれば、我々の一人一人はさまざまな段階の「広さ」〜「狭さ」のどこかに居る。我々はそうしたヘーゲルの図式から逃れることはできない。だが、それが「絶対」への距離を計る指標にもなり、我々は安心して希望を持つことができるだろう。たとえ今はそれが分からなくて苦労するかも知れないけれど、至り付くべき地点はあり、我々はそこに至り付くことが「できる」のだ。だがキルケゴールは、そうした足場そのものが無いような地点に居る。我々が長い階段のどこかにいるだろうというのは幻想でしかない。ヘーゲルの安心はここで「不安」そのものとなる。ヘーゲルは、我々が気付かないでも登っていること、安心の中にいることを教えてくれる。だがキルケゴールは、我々が気付かないでも「不安」の内にあるとつぶやくのである。


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