バシュラール × サルトル

想像力


 バシュラールの詩学・想像力論は、そもそもは彼の科学哲学に起因している。彼は科学者がなぜ間違うのかを問い、そこに、物質そのものが持っているイマージュを見出したのである。したがってバシュラールにとって、イマージュとはすべて、「間違ったもの」である。だがバシュラールはやがて、彼自身がそうした物質のイマージュに取り付かれてしまう。ここに科学哲学者バシュラールは詩学者へと変身することになるのである。
 サルトルはその処女作以来想像力の問題に焦点を宛て、それは前期の主著とされる『存在の無』における存在論に至るまで重要な観点の一つとなっている。その際サルトルは、デカルト以来の想像力論を批判し、とりわけベルクソンのイマージュ論を批判的に検討している。ベルクソンのイマージュを批判して、それが知覚とイマージュを混同したものだと批判したのである(ベルクソン対サルトル)。
 したがってサルトルからすれば、やはりバシュラールもベルクソンと同じである。サルトルにとってイマージュや想像力は、認識の問題ではないのである。バシュラールにとってイマージュが間違ったものだとしても、サルトルにとっていわばそれは当たり前である。サルトルがイマージュと呼ぶものは、そもそもが、正しい/間違っているの基準にあてはまらないのである。
 ただし、バシュラールはベルクソンと違い、イマージュに力動性を与えた。
また、イマージュこそ論じたものの想像力については特に重視することのなかったベルクソンとは異なり、想像力の問題そのものに焦点を宛て、そこから詩学を展開したのがバシュラールである(サルトルが『存在の無』を書いた時点では、バシュラールの想像力論は『水と夢』しか出ていなかったが、サルトルはそれが非常に豊かな可能性を秘めたテーマを扱っていることを見通していた)。だが、それは物資と意識を峻別するサルトルとは異なり、逆に物質そのものが内蔵する可能性に基づくものだった。これだけでもサルトルとバシュラールの想像力論の差異は明らかだが、ここから更に別の差異が明らかになる。
バシュラールはこうした物質的想像力に、我々の無意識的な感受性を見た。だが、サルトルは無意識なるものを認めない(→フロイト対サルトル)。「意識され<ない>」ものが<ある>というのは矛盾ではないか。想像力もそうである。それは意識の無化作用なのであって、そこに無意識が入り込む余地はないのである。
 確かにバシュラールはベルクソンと違って、持続を切断し、垂直の運動を導入することによって想像力をダイナミックなものにした。だが、サルトルが必要としたのは、ダイナミズムではなく、端的な否定なのだった。


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