スピノザ × ヘーゲル

絶対知の行方


 ヘーゲルは『精神現象学』の序論で、かつての盟友シェリングを批判し(→シェリング × ヘーゲル)、シェリングのようなやり方は「ピストルから飛び出すようにいきなり絶対的知識から始める」ものだと言っている。シェリングのこの方法はスピノザの影響によるものである。
 スピノザは主著『エチカ』を、何の断りもなく「定義」から始め、そこで「自己原因」なるものや、「実体」「属性」「様態」、そればかりか「神」にまで定義を与えている。まるで、何もかもすべて分かってしまっているかのようだ。では、スピノザ自身は一体どうやってそうした「絶対的な知識」に至ったというのか。
 コジェーブはヘーゲルのこうしたスピノザ批判を敷延して言う。「『エチカ』のこの絶対知を実現するために時間は必要とされておらず、『エチカ』は「一瞬のうちに」思惟され、書かれ、読まれねばならないのだ。これが『エチカ』の非合理である所以である」。
 スピノザには何が足りないか。即ち「感覚的知識から本当の知識にまで生成し、学問の各段階を生み出す」ような通路が足りないのだ。だが、「そこに至るには、意識は苦労して長い道を通り抜けなければならない」(ヘーゲル)。
そうした意識=精神の苦難の道の道しるべを描くのが『精神現象学』である。
スピノザにはこの『精神の現象の学』、別名『意識の経験の学』が欠けているのだ。
 コジェーブは言っている。「このようなわけで、スピノザとヘーゲルとの相違は次のように定式化することができる。すなわち、ヘーゲルは『論理学』を思考し、それを書くことによって神となる、或いは−ヘーゲルは神となってそれを書き、それを思考する。それに対して、スピノザが『エチカ』を書き、それを思考することができるためには、彼自身が永遠に神であらねばならない、と。」 だが、それはどだい無理な要求なのだ。「既に述べたように、スピノザの体系は非合理の完全な体現である」。だからこそ「スピノザを真面目に受け取ることは、実際に狂人である−或いは狂人となってしまうことを意味する」のである。
  こうした関係は、教師と生徒の関係として捉え直すことが出来る。
 ヘーゲル先生は、自分がどのようにして(どんなに苦労して)教師になったかを生徒に語る。「私はこんなに苦労して教師になったのだよ。そして君も、私と同じ道をたどらなければならない。だがその苦労はきっとむくわれるのだ。その苦労の後には、見なさい、私のような立派な(神のような)教師になることができるのだ」。更に言えば、ヘーゲルの場合、一旦絶対知に至れば、そこから滑り落ちることは決してない。それは、更新のいらないライセンスなのである。
 教師スピノザはそんな苦労を語らない。いや、スピノザは永遠に教師であり、しかも、驚いたことには語ることさえしない。彼はただ示して見せるだけだ。自分がどんな風に踊っているのかを。「君はこんな風に踊ることができるだろうか?」。スピノザは無言の内に我々にそう問いかける。


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