プラトン × ライプニッツ

「観念」について


 ライプニッツの思想の出発点(そのすべてではないにしろ、その重要な一つ)は、書物にすれば2頁ほどのテキストの中にある。「観念とは何か」である。
 この草稿でライプニッツが言っているのは、次の二つのことである。
 1)観念はそれ自体として実在するものであること。
 2)観念の本質は「表出」にあること。
 デカルトもライプニッツも「観念」というものが存在することを認める。しかし、ライプニッツからすると、デカルトの言う「観念」は単に我々の意識にしかすぎない。それは主観的なものにすぎないのだ。これに対してライプニッツは、デカルト的な意識=主観性を超えて、観念はそれ自体として実在的なものであることを強調する。
 そして、そうした実在する観念の本質が「表出(表現)」である。ライプニッツは次のように言っている。
 「表出されるべきあるものの状態に対応する状態をその中に持っているようなものは、あるものを表出すると言われる。だが、こうした表出には様々なものがある。例えば、機械の模型は機械自身を表出しているし、平面上でのものの遠近図は立体を表出し、発話は思考や真理を表出し、記号は数を表出し、代数方程式は円その他の図形を表出する。そして、これらの表出に共通なのは、表出している〔側のものの〕諸状態を考察するだけで、表出される側のものの対応する諸性質の思考に至り得るということである。ここから明らかなことは、〔両者の〕状態にある種の類比が保たれてさえいれば、表出するものが表出されるものと類似している必要はない、ということである。」 ここで重要なのは、類似と類比の違いだ。
 例えば、アナモルフォーズを考えてみよう。アナモルフォーズというのは、絵画の一種で、円筒形の鏡に写して見るもの。普通の絵を見る場合、私たちはその絵を見ればそこに何が描いてあるのか分かる。ところが、アナモルフォーズの場合には、描かれているものは歪曲されていて異常な形をしている。そのままでは何が描かれているのかは分からない。つまり、アナモルフォーズの絵(「観念」)とその絵に描かれているもの(観念の対象となる「もの」)とは似ていない(類似していない)わけである。似ていないにもかかわらず、ある種の対応関係を持っていて、ある種の変換を加えてやれば(円筒形の鏡に写してやれば)元の形が分かる。こうした対応関係のことを、ライプニッツは「類比」と呼んでいるのである。
 これは、表現するものと表現されるものとは「似ていなければならない」という考えを破壊するものだった。言い換えれば、「観念」という考えの大本であるプラトンの考えを破壊するものだった。ライプニッツはある意味で、プラトンの考えから我々を自由にしてくれた。それが別の罠の始まりだったとしても。
 「観念」がある種の働きを持っている実在的な・存在論的なものであるという意味で、ライプニッツの「観念idea」はプラトンの「イデアidea」に似ている。だが、決定的に違っている部分がある。それは、プラトンの「イデア」は、基本的にその対象と「似ている」と考えられていた点だ。例えば、プラトンの考えでは、「赤さ」のイデアはやはり「赤い」。「赤い」ものの中でももうこれ以上ないくらい「赤い」ものが「赤さのイデア」なのだ。だがライプニッツの場合、「赤さ」の観念は「赤い」ものである必要がない。また、プラトンが最も重視し、「イデアの中のイデア」、キング・オブ・イデアと考えた「善のイデア」は、やはり善いものであり、もう光輝く、そりゃもう大変なものだ。だが、ライプニッツにとって「善の観念」は少しも「善い」ものである必要はないのだ。
 この考えは当時は画期的過ぎて分かり難かった。だが、現代の我々にとってはほぼ自明のことである(例えば、コンピュータの図像データと図像そのものは全く似ていない)。だからこそ却ってその意味ないし意義が捉えにくいかもしれない。


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