アリストテレス × シェリング

大気、気象について


 一般的に言えば、哲学者たちは「大気」もしくは「気象」などと言われる現象を嫌ってきました。
 「大気」もしくは「気象」と言えば、これについての世界最古の科学的記述の一つは、無論、アリストテレスのメテオロロギカです(断片的なものはアリストテレス以前にも沢山あります。お天気は現在のわれわれが気にするのとは違って、古代には人間の生死までも左右するものでしたから、関心が低かったとは思われません)。ただ、これは現在の気象学よりはずっと範囲の広いもので(地学、化学の一部を含みます)、つまり非常に緩いものです。内容も今から見ればレベルは低い。
 そのアリストテレスがメテオロロギカ(いわゆる気象学)の最初に述べているのは、彼の学問における気象学の位置です。アリストテレスの科学(自然学)は、大きく言えば天上の世界の科学と月下の世界の科学に分けられます。
 そもそもアリストテレスの考えでは、世界の現象の最終的な根拠は自分は動かないで他の者を動かすという存在者(不動の動者)で、これが実質的にはアリストテレスの「神」で、その動力は「愛」です(これをキリスト教的な人格神と理解すると間違います)。これを出発点として、動かされて動かす者(被動の動者)が次に来ます。これは具体的には天体、天球のことです(キリスト教、イスラム教の文脈ではこれが「天使」に該当します)。ここまでは永遠で規則的な運動なのです。つまり、運動というものはあっても、変化はないのです。
 それに対して月下の世界、(天体(実質的には特に太陽)の影響下にある)われわれの住む世界では、運動は永遠なものではありえません。それは最終的には動物の運動にまで至り、ここでアリストテレスの自然に関する学問体系はひとまず終わります(この後にデ・アニマ(心理学ないしは生命原理の探求)、更に実践的な学が続きます)。
 そして、そうした月下の世界の最初に取り上げられるのが「気象学」なのです。動物や、引いては人間は意志を持ちます。それによって運動ないし活動は引き起こされるのです。とりわけ人間の行動を対象とする「倫理学」はしたがって、厳密な学の対象とならないのです。
 厳密な学、即ち永遠で普遍的なものの探求です。ですが、気象はどうなのでしょう。これは、「人間はそれぞれ勝手に行動するから厳密な学の対象ではない」ということで別なレベル(実践学)に移すことができますが、気象は明らかに自然の現象ですから、それとは違います。しかしかといって、気象は永遠な運動でも規則的な現象でもありません。アリストテレスが困るのも当然なのです。そんな中でアリストテレスはよくやったということが出来ます。少なくとも、気象現象の基礎的な問題点はよく描き出しており、しかもアリストテレス以前の自然学者たちと違って、綿密な観察に基づいた議論をしているのです。
  こうした「あいまいもこ」とした、暫時的で不規則な現象は、哲学者にとっては鬼門なのです。しかしそれだけに、こうしたものを一つの「比喩」として利用することはしばしば起こり得ます。例えばドイツロマン派、ドイツ観念論に属するシェリングは次のように言っています。
 「病気は、自由を乱用した結果として自然の中に入り込んできた無秩序として、悪もしくは罪と、格好の対をなすものである。病気はそもそも、根拠の隠れた諸力が現れて来てこそ存在するものである。つまり病気が発生するのは、本来ならば諸力の最も奥底の紐帯として深みの静けさの中で支配力をふるっているべき、感応的な原理が、自分自身を顕在化させてきたとき、あるいは、アルケウスが刺戟興奮させられて中心にある自分の安らかな住居を離れて周辺へと出てきたときなのである。……病気はもちろん本質的なものではなく、本来はただ生の幻影なのであって、たんに生の気象的現象、存在と非存在の間の動揺であるにすぎないが、しかし、にもかかわらず、何か非常にリアルなもののように感じとられるのであって、その点では、悪についても事情は同じなのである。」 ハイデガーが「西洋形而上の最高到達点」と評したこのシェリングのしゃらくさい著作(『自由論』)は、ここに見るように驚くほど「文学的」です。この著作の中心的な主題は「悪」の問題ですが、シェリングはそれを「病気」とのアナロジーで描き出し、その病気を更に「気象」の比喩によって表現するのです。
 プラトン、アリストテレスを始めギリシャの哲学者にとって「存在」とは永遠普遍なものでした。逆に言えば、変化するもの、生成消滅するものは、それがいかにリアルなものだと見えるにせよ、「非存在」だったのです。しかしシェリングは、そのいずれでもありいずれでもないもの、それこそが問題であると考えているのです。


inserted by FC2 system