ライプニッツ × シェリング

人間の発見


 例えばライプニッツはこう言っている。
 「神はこの小さき神々といわば戯れ、これらを生みだして良かったと思っている。これはちょうど、子供と遊びながら内心でこうさせたいとかこうさせたくないと思っている通りに子供が夢中に取り組んでくれているようなものである。それゆえ人間はそれ自身の固有の世界における小さき神のごときものであり、それぞれが自分なりの仕方で支配しているミコロコスモスである。」(『弁神論』147節) 「小さき神」としての人間、即ち理性的な「精神の特権」(『モナドロジー』82節)について、ライプニッツは繰返し語っている。それは即ち、「これによって理性的精神は、いわば神と仲間になること出来、神は理性的精神に対して発明者がその機械に対する関係(つまり、神が理性的精神以外の創造物に対する関係)だけに留まらず、君主が臣民に対する関係、むしろ父が子に対する関係を持つことになる」(『モナドロジー』84節、なお『新説』5節も見よ)ことである。我々がここから読み取ることができるのは、「子供」は単独でそれ自体「子供」であるのではなく、「父=神」によって「子供=人間」なのだということである。
 これに対してシェリングは次のように言っている。
 「ある人間が、子供の頃、即ち経験的に見て、そのような年頃の者にはほとんど自由や思慮があるとは思われないような時期に、もう既に、悪への傾向を示していて、その傾向に関しては、それが将来どんなに仕付や教訓を垂れても受け付けないだろうことが予期され、また実際に、予見された邪悪な結果が後になって実現するということがよくある。」(『自由論』386-7頁) シェリングもここで「子供」そのものを語っているのではない。シェリングはこの著作で「人間的自由の本質」について語ろうとするのであり、またいわば人間が特権的な位置にあることはライプニッツの所論と同様である。しかし、その特権性の由来は正反対となる。シェリングが「子供」の比喩によって言おうとするのは、人間にとっての「悪」の根源性である。
 人間にとって「自然=本性」的なのは理性だとライプニッツは言う。だから人間は神の似姿、小さき神なのだ。ところがシェリングは、人間ははなから「過剰」性を抱えているのだとする。人間のいる場所は、この地上ではない。天上か、それとも地獄かなのだ。ライプニッツにおいて神=父が数学者であり建築家であり立法家であったのに対して、シェリングのそれは「盲目的な意志」だった(ライプニッツ対シェリング 神と悪)。


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