ゲーリンクス × マールブランシュ

神において見ること


 ゲーリンクスは「私が明確に認識することは私のなしたことである」、逆に「私が明確に認識しないものは私がなしたことではない」として、精神と身体を明確に区別するデカルトの二元論を押し進め、しかし同時に、精神の原因も、身体=物体のそれも、両方とも神なのでだと考えた。こうした立場を「機会原因論」と呼ぶ。
 つまり、私は自分の体が動いているのは分かるが、それを説明できないのだから、私の精神が体を動かしているのではない。動かしているのは神なのであり、その神が私の精神と身体をうまく調整しているのだ。だから、私は自分の体が動いているのを「見てるだけ」なのである。私はそれを目撃しているが手を出すことはできない。それではピーピング・トムなのか?妻に逃げられ、捜し出した妻をマジック・ミラー越しに姿を見ることしか出来ない哀れな男なのか? そんなものには我慢できない! 同じ機会原因論に分類されるマールブランシュは、そこに別な要素を組み込んだ。つまり精神あるいは意志の「自由」である。ゲーリンクスのような考えだと、自分の行為に自由もないし責任も持てないことになる。そんなことがあるものか。
 デカルト哲学はゲーリンクスに繋がるような認識論的な側面の裏に、主意主義的な側面を持っていた。マールブランシュは認識論的にはゲーリンクスと同様に「神において見る」のだと主張した。我々が認識するのは対象そのものではなくて、対象の観念である。しかし、その観念というのは神が持っている観念なのだ。だから、我々が「机」を見ているのも、神の中にある「机の観念」を通して見ているのである。「我々はあらゆるものを神の中で見る」。マールブランシュはしかし、これを更に意志や情念の世界にまで広げる。我々の認識が神の認識に由来するように、我々の意志も神に由来する。しかし、そうなると我々の「意志の自由」はどうなるのだろうか。マールブランシュは、神から与えられた善一般への傾向を「意志」と呼ぶ。神は普遍的だから、神の意志も普遍的な善を目指す。そして、「自由」とは、その傾向に特殊な方向を与えることである。意志そのものは抽象的な傾向であって、具体的な対象を持たない。「このコーヒーカップが好き」というのは、意志からは出てこない。それは自由が請け負うのである。
この自由は、意志を個別的な物、具体的な物に向けたり、あるいはそれを拒否したりすることにある。個別的な物への傾向の拒否、それは普遍的な善である神への傾向の肯定に繋がる。我々の認識が神に向けられるように、我々の意志も神に向かわなければならない。
 しかし、ゲーリンクスが認識論一本槍だったかというとそうではない。むしろ、ゲーリンクスの根本には宗教があるとの解釈もあるし、実際彼の主著の一つは「汝自身を知れ、または倫理学」なのである。我々は行為するのではなく、ただ見るだけだという形而上学的立場から導かれる倫理学は、しかし、スピノザ主義に至る可能性がある。


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