フッサール × デリダ

記号について


 フッサールは、その初期の著作『論理学研究』において、記号を「表現」と「指標」とに分け、執拗に「指標」を取り除くことで、純粋な「表現」を取りだそうとする。
「指標」とは、外的・経験的なものを指し示す記号であり〔例えば、ある記号があそこに見える木を指し示しているような場合なんかがそうだ〕、更に言うと指示するものと指示されるものとの間に実在的事実関係がある記号である。今述べた例は、言葉と事物の関係だし、私の気持ちを言葉で伝えようとしてるなら、その時の言葉と心理の関係がそうだ。つまり何か指し示すとき、何か伝達しようとするとき、その記号は「指標」なのである。
 けれどそうなれば、どんな記号も「指標」でないのか。何も指し示さない・何も伝えないような記号なんてあるのか、あっても記号といえるのか? さて「指示するものと指示されるものとの間に実在的事実関係」とは、いずれも「行きずりの関係」、偶然的関係にすぎない。でないと(記号と実在の関係が固定されてると)、その記号をさまざまな場面で(指し示しに)使えなくて、とても使い勝手が悪いだろう。記号と実在との関係は恣意的で間接的である。それどころか記号はその指し示す実在的対象を必ずしも必要としないのだ。
 指し示すことは記号の本質じゃない。フッサールが「指標」を取り除くことで取りだそうとするのは、実際に存在しているものに何等依拠しない記号(言葉)、記号(言葉)を記号(言葉)たらしめていることを剥き出しにしている状態の記号(言葉)=純粋表現である。言い替えれば、何かを指し示したり、何事かを他人に伝達したりする記号(言語)の諸機能に先立つような、だから指示=伝達の機能が停止(宙吊り)になった時浮び上がるはずの、記号の本来性である。このような「取り除き」の手続きは、もちろん後に「還元」とよばれることになるものの萌芽であるが、そうやって取り出された「純粋表現」においては、意味するものと意味されるものとがぴったり一致している。記号は何かの代理としてその何かを表していたのだけれど、「純粋表現」においては記号はその記号自身を表してる。自分自身を表すのだから、何度使おうが、寸分も狂いがない、間違えようがない。そこでの記号=純粋表現は、もはや外的・実在的な何ものも指し示さないイデア的対象性を持つだろう。どうしてこのことが記号の本来性なのか。それはつまり、いつ、どこで、何度再生させても、同じ意味を保持することを保証し、この意味であらゆる同一性、真理の真理性を成り立たせるものだからである。
 フッサールはとうとう、あらゆる外的・経験的な記号関係を排除し、伝達も指し示しもしない「孤独な心的生」=モノローグの直接的な「自己への現前」といったところまでたどりつく。モノローグは意識の外へ飛び出していかないために、あらゆる指標、伝達に汚染されることを免れているとフッサールはいうのである。モノローグというのは、自分が自分に話しかけること、自分に「伝達」することじゃないのかという反論には、「そんなことは必要無いし、必要無いからすることができない」と応じている。つまり直接的に自己に対して現れるのだから、媒介物としての記号を使う必要なんかさらさらないのである。モノローグにおいては、話し手と聞き手の区別がない。意味するものと意味されるものの区別もない。実際には自己自身に何事も「伝えて」いないのだが、まるで「伝達」するかのように自己を「話し手」として表象する=思い浮かべてるだけなのだ。
 ここでフッサールは、心の中で起こっていることを、「実際;現実」にはこうなのだが、「表象(想像)」においてはこうだと分けている。けれど、こんなことができるんだろうか。ホッブズが、意識に直接現前するもの(=観念)を、言葉=記号から区別して(言葉=記号に汚染されてないものとして)、なおかつそれを「精神的言説(心の言葉)」と呼んでたことが思い出される。ここでデリダは「言葉というのは、本来(否応なしに)そういうものなのだ」と言うだろう。言語においては、「現実」と「表象(想像)」を分けることなんてできない。言語における「現実」とは、すでに「表象」なのだ。
 「一度きりしか使われない記号は記号でない」、ということは、つまり記号というのは、いつも何かの繰り返し(再現)であるということだ。たとえ何か(現実)の代わりでないとしても、記号自身を指し示してるとしても、記号自身が「繰り返し(再現)」であるのだ。この記号の反復=再−現前可能性こそが、これを欠いては記号足り得ないような記号の本来性である。フッサールの理想=純粋表現=完全な再現=現前と再現の一致=イデア的対象性=指示するものと指示されるものとの一致=「イデア的対象性をもつから、誰が、いつ、どこで、再生させても、同じ意味を保持する」は、(それを辿ることで/メビウスの輪を辿るみたいに)反転される。つまり、記号はイデア的対象性故に反復可能なのではなく、反復可能であるが故にイデア的対象性をもつのであり、現前は再−現前の可能性に依拠し、「現在の現前」は反復から派生する。
 ここで、デリダは……(笑)


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