カント × 論理実証主義

数学の身分


 カントが分析/綜合、ア・プリオリ/ア・ポステリオリの区別を設け、「ア・プリオリな綜合判断」の可能性と存在証明を課題としたのに対して、論理実証主義者は鼻っから分析=ア・プリオリ、綜合=ア・ポステリオリとし、「ア・プリオリな綜合判断」の存在を否定してしまった。
 事の焦点は、両者の、分析性についての、加えて「数学」についての理解の違いである。「分析的真理は論理的真理である」ととりあえず云ってみよう。おそらくは、カントも論理実証主義者も表立っては反対しまい。だが、論理的真理の中身が(そして論理的真理がなぜ必然的に真であるのかという根拠が)両者の間では違っているのである。
 カントにとっては、分析判断とは、主語に潜在していた述語を顕在化させた(だけの)判断である。つまり最初から含まれていたものを明るみに出しただけなのだから、知識を増大させない。そして最初から含まれていたものを明るみに出しただけなのだから、必然的に真なのである。
 しかし論理学に数学を帰着させようとしたフレーゲやラッセルにとって、そしてそれを受け継いだ論理実証主義者たちにとって、カントの分析性の定義はあまりに「狭すぎる」ものだった。このような主語−述語「論理」だけでは、数学を構成するには十分でないことは、アリストテレスの時代から気付かれていた。純粋数学や幾何学の命題が、カントにとっては「分析的真理」からはみ出すものと見なされたのは、この分析性の定義から当然だった。
 逆に、論理学と数学の命題がともにトートロジーであると主張する、フレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインらにとって、両者は陸続きであり、区別する必要はない。
幾何学の命題が必然的に真であるのは、カントが幾何学的認識を特徴づけた直観的必然性のためではなくて、ただ定理間の演繹的関係の間にある論理的な必然性のためである。直観的空間について、それらの定理が成り立つか否かは、定理の必然性とは無関係である。


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