ハイエク × ポラニー

「市場」について


 1920年代から30年代にかけて行われた、いわゆる「社会主義経済計算論争」は、自由主義の立場に立つ経済学者の「社会主義経済は不可能だ」という主張と、社会主義の立場に立つ経済学者の「いや、社会主義経済は可能だ」という反論から出発し、やがて交換市場の機能と政府による再分配機能について、どちらをどれだけ認めるか、といった議論の「精緻化」に収束していきました。それは社会主義経済が、一部、市場システムや利潤概念を導入し出し、また資本主義経済が、「自由放任」を離れ、政府による所得や資源の再分配や経済介入の役割をますます強めていくなど、「二つの経済体制」のちがいがどんどん小さくなっていった現実に、論争の対立点が追い抜かれていったからでもありました。
 かつてこの論争の渦中にあり、やがてスピンアウトしていったふたりの論者が、ここで取り上げようという「対戦」の対戦者たちです。ひとりは新古典派以降の(つまり「普通」の)経済学者が想定しているような「市場」はありえないことを示し(そして現実の「市場」を見出しました)、もうひとりは「市場」がなくてもいいことを示しました(そして「市場」的な考え=偏見を暴き立てました)。
 「社会主義経済計算論争」は、オーストリア学派のL.フォン・ミーゼスの「社会主義共同体における経済計算」(1920)という論文に始まります。ミーゼスの主張は、(恥ずかしいことに、今でも自称エコノミストが口にする論旨でもあるのですが)、社会主義経済では(生産手段が公有化されるため、生産財の)「市場」がない。そのため(生産財の)価格が、需要と供給の均衡点で決まるといったことがない。したがって、資源配分が(政治権力の)恣意的にならざるを得ない。社会主義経済は理論的にいっても破綻する、というものです。
 社会主義の立場に立つ経済学者は、「市場」のかわりに、中央計画局といったものが、経済状況を適切に判断し、最適な資源の配分を行い、またそのための「価格」の設定も行うことができるとして、「市場」至上主義を廃しました。このことを可能としたのは、皮肉にも、個々の「市場」の均衡でなく、経済全体での「均衡」を主張し分析した(いまではどんな経済学の教科書にも載ってる)一般均衡理論でした。その創始者のひとりワルラスは、経済全体を連立方程式によって表し、その解が存在することをもって、一般均衡の成立を論じました。社会主義中央計画局は、その連立方程式を実際に解くことで、経済を御しようというのです。
 論争の中で、生産手段公有の下での経済(社会主義経済)が成立可能であることが「理論的に」解明されていきました。1935年、ミーゼスの弟子であるハイエクは、『集産主義計画経済の理論』の中で、これまでの論争をまとめ、社会主義経済の理論的成立可能性については、社会主義の立場に立つ経済学者の主張の方が説得的だとしています。けれども、実際には中央計画局の行うべき「計算」は膨大で実行不可能だというのが、ハイエクの主張でした。けれども、このなんでもないハイエクの主張は、より長い射程を持っていました。今日どんな経済学の教科書にも載っている、【「市場」に参加する消費者は、自分の一定の資金をできるだけ有効に利用しようとする、つまり自分の効用を最大化するように、買う商品の選択を行う】という新古典派に由来する消費者理論は、理論的には成立し得ても、膨大な「計算」が必要なため、「社会主義経済」と同様に実際には不可能となってしまうのです。
 ハイエクはもういちど「計算」から「市場」へと立ち返ります。そこでの「市場」は、もはや均衡価格を達成するような(連立方程式の「計算」で取って代わられるような)「市場」ではありません。ハイエクにとって、常に変動している「市場価格」が重要なのは、取り扱うことができない膨大な情報がそこに圧縮されているからです(ルーマンがやがて、情報圧縮形態としての「貨幣」「愛」「意味」と取り上げ、そのシステムとして「経済」「結婚」「言語」を想定するのは周知のとおりです)。「市場」の存在意義は、それが経済の複雑性への対応であるからです。均衡に達した「市場」は、もはや価格が変動することもなく、何も我々に伝えない死んだ市場であり、それは実のところ、あの「不可能な計算」の末にしか見いだせないものなのです。
 もうひとり、1922年という早い時期にミーゼスへの批判を行ったのが、後に経済人類学を提唱することになるカール・ポラニーでした。ポラニーは「社会主義は不可能」というミーゼスに対して反論したのですが、その論旨はふつうの社会主義者たちとはかなり違っていました。問題は、「市場」なき経済なのですが、ポラニーは社会主義者のように「市場」の代わりに中央管理を持ってくることはせず、生産諸団体(生産者側)とコミューン(消費者側)のそれぞれの団体が、地域分権的に話し合って価格を決めればいいじゃないか、というのです。
 このあまりに素朴であっけらかんとした論説に対し、さすがにミーゼスから「では、両者の間に紛争が起こったらどうするんだ?調停するのに、最高決定機関が必要じゃないかね」と反論がありました。反社会主義のミーゼスにまで、それだったらまだ中央管理の方がましだ、と思わしめたポラニーでしたが、しかし彼には自信がありました。それは「市場」が生まれる前から、ずっと人間がやってきたことだ、というのです。
 この時、ポラニーが直接念頭に置いていたのは、イギリスの同業者組合に見られた相互扶助の仕組みでした。彼らはそれぞれ小規模な生産者でしたが、資金を融通し合ったり、生活財を融通し合ったりする時には、それぞれ生産者であったり消費者であったりしました。ミーゼスら経済学者が想定する、生産者と消費者の調停不能な対立は起こらない、なんとなれば生産者(ものつくってるの)も消費者(ものつかってるの)も、同じ一人の人間の、それぞれの側面だからだ、とポラニーは再反論しました。
 この牧歌的に見える主張が経済学者に届いたとは思えませんが、ポラニーは、「市場」がその二つの側面の間に割って入ることで、逆に生産者と消費者の「調停不能な対立」を生じさせているのであって、「市場」からしかすべてを見ない「経済学的偏見」が、互助組合や互酬制を「時代錯誤」なものとして追いやっている、と考えるようになります。ここから20年後『大転換The Great Transformation - The Political and Economic Origins of Our Time』が書かれ、経済人類学への扉が開かれることになります。


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