トマス × ライプニッツ

神の自由、世界の最善


[「トマス対ライプニッツ 世界は最善か」の続き。] トマスは、この世界が最善ではないとする。なぜなら、もし神が最善最高の世界を創ったのであれば、逆に言えば、神はこれ以上の世界を創ることができないことになってしまう。これでは神の力は制限されることになるし、第一神の自由な意志が働く余地がなくなってしまう。また、世界の最善(「オプティミズム」)を主張したライプニッツは、神が世界を選んだ理由=根拠を世界が最善であることに置くが、そうすると神の選択の理由=根拠(神の創造の動機、モチーフ)は神の中にはなくて、世界の中にあることになる。だとすれば、神は世界に強制されて世界を創ったことになってしまう。そんな馬鹿なことがあるものか。だからこそトマスは、「どうして神はもっと善い完全な世界を創らなかったのか」という苦悩を押し退けて、むしろ神の全能と意志の自由を擁護するのである。その理由は我々人間には分からないけれども、神はともかく自由にこの世界を選んだのだ。
 しかし、ライプニッツのやり方はもっと巧妙だった。
 論理的に矛盾でないものは全て可能だ(矛盾律、矛盾の原理)。この可能なもの全てを神は最高の知性によって認識することができる。しかし、その中で最善のものは(最上級なのだから)一つしかない。神はそれを選んで実際に創造した。だからこの世界は、可能ではあるが最善でないために実現されなかった無数の宇宙を「差し置いて」、神が選んだ最善のものである。神は何でもいいから創ったのではなくて、最善という根拠=理由をもって選んだのだ(根拠の原理/理由律とも訳される)。神の意志は恣意ではなくて、最高のものを選ぶような善意なのである。
 問題は、最善の世界は唯一なのだから、最善を理由に神がこの世界を創ったとすれば、神は自由ではなくなるではないか、というものだった。しかしライプニッツは欲張ったことに、神はそれでも自由だとする。なぜなら、実際には創らなかった可能的世界が無数にあるからである。それらの世界を創ることも可能だった(神の認識=知性の中では)が、神は最善のこの世界を選んで実現した(神の行為=意志の中では)のだ。
 つまり、ライプニッツはここで「出来ない」ということを両義的に使い分けるのである。神は論理的には他の世界も創れる。だから、神が他の世界を創れないというのは、道徳的に不可能なだけなのだ。道徳的に不可能なものも、実は(論理的には)可能なのだから、神は創れるのだ。ライプニッツはこうして、矛盾律にしたがう論理的必然性と、根拠律にしたがう道徳的必然性を区別し、神がこの最善の世界を選ばざるをえなかったという必然性は、神の自由を否定しないような、道徳的な必然性だとするのである。
註:論理的可能性よりも道徳的必然性(現実性)の方が狭いことに注意(→アリストテレス対ライプニッツ)。論理的可能性=道徳的必然性+道徳的不可能性。


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