スピノザ × ヒューム

実体的精神の批判


 スピノザはデカルトから実体という言葉を受け取ったが、デカルトが精神を有限実体だとしたのに対して、実体の定義から考えて、実体は一つしかないし、無限でなければならないと考えた。つまり神である。だから、これ以外はすべて実体ではない、様態である。実体は一つだが様態は多数で、互いの関係の中で規定される。我々が自分の精神だと思っているものは、だから、様態か様態の集合にすぎない。だから精神(意志)の自由もないのだ。人間の精神は実体でも主体でもない。スピノザが認めるのは沢山の観念(これは様態)であって、精神は観念から構成されている(→デカルト対スピノザ)。
 ヒュームの考えも、自我といった実体を否定することに関してはスピノザと同じことだ。自我なんかない、それは知覚の束にすぎない(→バークリー対ヒューム 自我について)。しかし、ヒュームがスピノザと違うのは、その束の元になっているものである。ヒュームはそれが知覚だとする。スピノザはそれを観念だとする。知覚というのは我々たちの精神に現れては消えるものだ。つまりヒュームの方法は、自分の「意識」を振り返ってみることである。これに対して観念とは、唯一の実体である神から出てくるものだ。だからスピノザの方法は、自分の「意識」を超える構造を見出すことである。
ヒュームは全ての実体を否定するが、スピノザは他の実体的な主体を解体するために、ただ一つの実体を前提とするのである。


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