アリストテレス × ラッセル

主語


アリストテレスは「存在は多義的に語られる」と言った。理由は、「存在」では何も語れないからである。「ソクラテスは存在である」「犬は存在である」あたりまえだ。それは「ソクラテスは存在する」「犬がいる」という同じだからだ。いやそれでも「ソクラテス」や「犬」の存在について語っているではないかと言われれば、聞きたかったのはそんなことじゃないと応えよう(語っているのは、たまたま「それがたまたま存在している」という事態についてなのであって、「ソクラテス」や「犬」について語っている訳ではないことに注意しよう)。つまり先行していた問いは「ソクラテスとは何か?」「犬とは何か?」であったのであり、その答えはたとえば「ソクラテスは偉い」「犬は動物である」などであったことだろう。「ソクラテスは偉大な存在である」は答えとなっても、「ソクラテスは存在である」は答えとならない。「〜は存在である」の「〜」には何でもあてはまるので(どんなものでもあるので)、逆に「〜」を規定すること、「〜」がどんなものであるか語ることが、この構文にはできないのである。
 冒頭のアリストテレスの言葉をみると、彼は「存在」について語っている。存在は述語にならなかった(述語にはふさわしくなかった)が、ここでは主語として登場する。「存在」というのは、「ソクラテス」であったり「犬」であったり他どんなものでもあったりする。そして「ソクラテス」と「犬」はもちろん別物だ。「存在」はその都度いろいろなのであり、つまり「ソクラテス」であったり「犬」であったり他どんなものでもあったりするのである。「存在は多義的に語られる」。
 ここで思い出すことがあるだろう。アリストテレスにとっては、主語になり決して述語にならないものだけが、実体(実体としての個物)であった。アリストテレス自身は、その条件にかなうもの(究極的主語)として固有名(たとえば「ソクラテス」や「アリストテレス」)だけをあげていた。ところが「多義的に語られる」ところの「存在」は、あまりの無規定・無限定ぶりのために、述語たることがかなわなかったのではないか。逆に不自然だけど、我々は「ソクラテス」や「アリストテレス」を述語として使用することだってできるのである(「ソクラテスる」とか「アリストテレスる」とか)。それに気付いたのが、かのバートランド・ラッセル郷だった。かれは「主語になり決して述語にならないもの」として、論理的固有名(変項x)だけを採用した。変項xは多義的である、なにしろ変項なのでその都度何にでもなる。その無規定・無限定ぶりはあの「存在」にまちがいない。なにしろラッセルは、「ソクラテスがいる」という命題を「xは存在する、かつxはソクラテスである」(ソクラテスは述語になっていることに注意)に書き換えてしまい、そのことで古典的論理学に(そして我々の言語に)寄生する「隠れた存在論」をカッコ入れし、「存在論抜きの論理学」(現代論理学)をスタートさせるのである。この新しい論理学は、「存在の二重化」(→デカルト対フレーゲ)にはまり込むことなく、数学の哲学を行なうこと、そして認識論を回避して哲学を行なうことに大いに役立つことになる。


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