マイモニデス × スピノザ

聖書の作者


 スピノザが聖書解釈の方法を立てるのあたって批判したのは、聖書を外的な基準によって判断することである。聖書は聖書そのものから読まれねばならない。
 例えばマイモニデスは聖書を理性に従わせる。しかし、そのことによって聖書はむしろ多義性を際だたせることになる。この時マイモニデスは、聖書の矛盾・多義性を排除する方向で解釈を進める。しかしこれは、聖書の多義性を理性の一義性へとそぎ落して行く方法であり、それによって成立する「聖書の意味」とは、既に聖書そのものとは違ったものとなっている。それは聖書の歪曲に陥るのである。
 しかし、マイモニデスにはマイモニデスの意図がある。マイモニデスが気に入らなかったのは、聖書の矛盾を秘義によって糊塗してしまうことである。秘義、即ち、超自然的権威を導入することによって、聖書はわけのわからない宗教家たちに占有されてしまう。マイモニデスは理性の権威を持ち出すことによって、いわば聖書解釈に風穴を開けようとするのである。
 マイモニデスの意図はスピノザの意図でもあったといえる。しかし、風穴の開け方は逆になる。なぜなら、スピノザの目に映っていたのは、聖書を理性的に解釈することを主張することで、聖書を学問的権威に従わせるような神学者たちだったからである。
 勿論スピノザは、マイモニデスが批判していたような超自然的立場に戻ることはない。そのような立場は、ユダヤ教の文脈ではカバリストたち、キリスト教の立場ではレモンストラント派がスピノザの当時でもうろうろしていたからである。
 超自然的な権威に頼るのではなく、理性的学問的権威から始めるのでもなく、スピノザが見ようとするのは、聖書そのものの歴史的起源である。
 宗教的権威の立場にしろ、理性的立場にしろ、スピノザの目から見れば、全く同じ基盤の上に立っている。つまり、彼等はいずれも、聖書はただ一人の手によって書かれたものだと疑わないのである。
→アルカパール対マイモニデス
→ヘーゲル対アルチュセール


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