アルカパール × マイモニデス

聖書の解釈


 聖書解釈の中心問題の一つは、聖書が含む多義性や矛盾をどう整合的に理解するかということだった。この点では、およそ二つの立場がある。つまり、その矛盾が内的なものであるとする立場と、外的なものであるとする立場である。
 エフダ・アルカパールはは聖書を外的な基準によって評価することを拒み、聖書を聖書そのものから読むことを主張する。
 だが、マイモニデスの考えでは、それは「臭いものに蓋」式の解釈である。聖書には覆い難い矛盾がある。
 しかし、アルカパールにとっては、そうした矛盾は、マイモニデスのように外的な基準を聖書に適用するからこそ見えてくるものにすぎない。
 マイモニデスの場合、聖書は理性に従わせられるべきであって、もし、聖書が理性に矛盾する場合には、聖書そのものが問われるべきである。アルカパールのような立場は、聖書に従う敬虔さを装っているが、実は聖書への盲従にすぎない。
 アルカパールにしても、聖書が矛盾を含むことは認める。しかし、その矛盾は、理性といった外的原理に従って解消されるべきではない。むしろ、そこに見出される矛盾を判断する基準は、宗教的な秘義によって判断されるべきである。
 マイモニデスは、矛盾を聖書から際だたせることによって、そこに理性的契機を導入する。アルカパールは逆に、いわば聖書を奥へと読んで行く。そこで見出される矛盾は、我々にとっての矛盾にすぎず、それは内的な水準では無矛盾である(「含蓄として、結果的にper consequentiam」矛盾しているように見えるだけである)。
 アルカパールの解釈が伝統的なものに理論的基盤を与えたものであるに対して、マイモニデスが決定的なインパクトを与えたのは、彼がアリストテレスという異教的なものにインスパイアーされていたからである。


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