カント × ヘーゲル

哲学について


 ヘーゲルは哲学史において「勝ちすぎ」たのかもしれない。「哲学史」の成立はとりあえずうっちゃるとして、その哲学を見るならば、カントの方がずっとマトモだ。常識人たる私からすれば、人間精神には踏み込めない領域があるのは確かに思えるし、それをこえて「やりすぎ」てしまえば、理性が感性的知覚を越えてそれ自身好き放題に暴れれば、とんでもない妄想の化物が生まれるだけであるのも、確かにそのとおりだと思われる。カントは分をわきまえてた。哲学がやっていいことといけないことを知っていた、示して見せた。哲学の限界;境界を示したということは、哲学の輪郭;どんな形をしているか/しているべきかを描いたということだ。
 けれどヘーゲルに言わせれば、哲学の限界;境界を示すことは、要するに哲学を制限すること、否定することだ。それが哲学者ヘーゲルには我慢ならなかった。カントがいうことは別に間違いじゃない。けれどそれじゃ駄目なのだ。カントがやったことは、懐疑論という蛮族;経験論という遊牧民から、哲学を守ることだった。そのために、周りに石壁を巡らせ、決してこの外にはでないようにと言い聞かせた。けれどそのやり方は、哲学の力を奪い、哲学を窒息死させることになるのではないか。一方でカント〜ショーペンハウアーの系譜に位置する『論理哲学論考』を書いた(その結論は「語り得ぬことについて語ってはならない」。哲学の放棄;蒸発だ)ウィトゲンシュタインは、後にこう語っている。「私の全傾向、そして私の信ずる所では、およそ倫理とか宗教について書きあるいは語ろうとしたすべての人の傾向は、言語の限界にさからって進むということでありました。このようにわれわれの獄舎の壁にさからって走るということは、まったく、そして絶対に望みのないことであります」。けれど壁に逆らって走ること、壁を越えてなおも行こうとすることは、人間の精神に潜む決して拭い去ることのできない「傾向」であり、「私は個人的にはこの傾向に深く敬意を払わざるを得ませんし、また、生涯にわたって、私はそれをあざげるようなことはしないでしょう」(Wirrgenstein's Lecture on Ethics 1929.11.17)と。
 ヘーゲルも無論、壁に逆らって走ること、壁を越えてなおも行こうとする「傾向」を嘲ったりしなかった。逆にそれこそが理性の本性、哲学を生み出す力だと主張した。ヘーゲルは、今はなきカントに、そして他すべての「哲学者」たちに、こう言うだろう。「いいか、よく見ておけ。これから俺が哲学ってものを見せてやる」。
やがて、すべてに向かってあまねく伸びる力から、とんでもない哲学の化物(哲学そのものといってもいい化物)が生まれ、何人もの「哲学者」たちがそれと格闘することになる。


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