ソクラテス × プラトン

よい大工、よい有徳者


 ソクラテスの「答え」というのはいつも、「賢明であれ、思慮深くあれ」だった。徳は認識のうちに成り立つ。知らないならば善を為すことはできない。悪を為すとは、間違いをしでかすことなのである。ソクラテスは徳の問題を論じるときにはいつも、技術の分野から例を引いている。技術においては、端的に知がすべてだ。職人は自分の仕事に精通しているが故に間違いを為さない。知っている(精通している)職人が、すなわちよい職人なのである。類比的に云えば、「徳に精通している人が、すなわち有徳者である」ということになるのだろう。しかし問題は残る。
 ソクラテスは、モットーを提供するが、それは決して徳を解明しない。我々は「よい大工」とはいうが、「よい有徳者」とはあえて云わないだろう。この両者の違いとは何であろうか?たとえば、「よい大工」は、「家を建てる」という目的に対して「よい」と云われるのである(逆に「わるい大工」は、「家を建てる」という目的に対して、間違いをしでかす・ろくな家を建てないから「わるい」のである)。では「有徳者」は、「徳を為す」という目的に対して「よい」と云われるのか?「よい有徳者」とはあえて云わないのは、「有徳者」が「よい」に決まっているからである。「徳を為す」は「よい」そのものだからである。
 ソクラテスが中断したところから、プラトンは善について考察を始める。
 知が倫理的価値を持つには、何かに関係づけられていなくてはならない。つまり「何のため」の知であるかが問題だ。「大工の知」は、「家を建てる」という目的に対して「よい」とされるだろう。しかし「家を建てる」自体も、そして他のどんな事どもも、倫理的価値を持つには、もっと別の何か(〜の目的で家を建てるとか)に関係づけられなくてはならないだろう。こうして、ある事の価値は、いつも他のある事のために価値である、という具合に「価値の階梯」が進むなら、我々は結局「最上の価値」を仮定せざるを得ないだろう。およそある限りすべての価値は、最終的にはこの「最上の価値」に依存するだろう。さもなくば「〜のために」で結ばれた価値連関の階梯全体が、無価値となり、その意味を失ってしまう。
 ところで「徳を為す」は「よい」そのものであった。「よいそのもの」は、何ものに関係付けられなくても、そのまんま倫理的価値を持つはずだ。「よいそのもの」=善のイデアは、ソクラテスの「生きる術」を、技術知/倫理的価値の関係に整理することで、つまり「かたづける」ことで現れる。ソクラテスにおいて、魂の配慮、倫理の技術であったものが(つまるところ何かに関係づけられてしか在り得なかったものが)、今や「天上のもの」に置き換えられる。つまりここにおいて「哲学」が始まる。


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