トマス × スピノザ

無知の避難所


 中世以来、神は二つの側面から論じられてきた。つまり、存在の側面と、働きの側面である。存在とは、文字通り神自身が存在することであり、働きとは、神にあっては世界の創造のことである(→トマス対シェリング)。その神が(世界の創造という)働きを「何によって」行なうか、ということには様々な立場が提出されている。例えばスピノザの場合。
 「神は、自己の本性の諸法則だけによって働き、何ものにも強制されて働くことがない。」(『エチカ』第一部定理17) ここで言う「本性」とは「自然」と同じ語、つまりNATURAのことである。この考え方は、次のような中世における主張に対するポレミークである。
 「神の意志は事物の原因か」の中で、「神は意志によって働くのであって、ある人々が考えたように、自然の必然性によって働くのではない、とぜひとも言わねばならない」(トマス『神学大全』第一部第19問題4項)。
 「ぜひとも言わねばならない」という通り、トマスは、このテーゼを重視し、三つの論拠を挙げている。第一の論拠は「作用原因の秩序」によるものであり、第二は「自然的作用者を根拠とする」ものであり、第三には「結果の原因に対する関係から」示される。
 1.作用原因は、それに一定の秩序、方向を与える「より上位の」ものを前提としなければならない。それが神の知性と意志であり、これは自然本性に先立つ。したがって、神は自然本性によって働くのではない。むしろ、事物の原因は神の意志である。
 2.自然作用者はただ一つの結果しか産み出さない、つまりその働きは(存在と同様に)限定されている。作用とは存在によって規定されるからである。しかし、神の存在は限定されていないから、その働きは無限であることになる。しかし、神の他には無限なものはないのだから、神の働き(の結果としての世界)も無限ではありえない。そうでなければ、神は流出することになる。したがって、神の働きは限定されねばならない。その限定は意志の働きである。したがって事物の原因は意志である。
 3.結果は原因に先在する。神の存在は知性認識そのものであるから、神のうちにある結果は知性的な在り方で先在する。こうした知性内的なものを働きにもたらすのは意志である。したがって、事物の原因は神の意志である。
 これらの論点は、「神が意志によって働く」というテーゼが含んでいる意義を明確にしていると同時に、スピノザのポレミークが、何に対するものであるかを示唆している。
 トマスの挙げる1.これはつまり、目的論を前提とした論拠である。2.は目的論的な考え方であると同時に、神の超越性を前提とした議論である。更に3.は観念論的な論拠であると言える。したがって、スピノザは「神は意志によって働く」というテーゼの批判によって、この三つの考え方を批判しているのだと言える。
 しかし、そうして三つの考え方は、結局のところは、同一の基本的な前提に基づいている。即ち、作用原因(自然的な原因)に対して目的が、世界に対して神が、現実的な事物に対して観念的な原理が、それぞれ「先立っている」という論理である。
 結局スピノザの立論は、「神(の本性ないし自然)に『先立つpriorもの』はありえない」という単純な命題に収斂されるものである。その「先立つもの」が、トマスでは、目的であるとされ、観念的な原理であるとされるのである。そして、それによって神の世界に対するプライオリティが確立されるとするわけである。そのプライオリティの表現の一つが神の(世界に対する)超越性に他ならない。
 こうした目的性、超越性、観念性を否定することによってスピノザは、もはや我々は、世界の外に逃げ場を見出すことはできない、と考えているのである。これがスピノザの、いわゆる「無知の避難所」の批判である。


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