トマス × シェリング

生成する神


 トマスの『神学大全』は中世キリスト教神学を体系化したものである。第一部は神、第二部は人間、第三部はキリストを扱う。
 大雑把に言えば、第一部では神が二つの観点から論じられる。つまり、神の存在と神の働きである。中世哲学では、あらゆる存在者は基本的に「存在」と「本質」、「形相」=精神的原理と「質料」=物質的原理という二組、四つの概念で分類される(この二組を貫いている原理が「可能態」と「現実態」である)。例えば人間は、可能態としての「質料」と現実態としての「形相」から構成されていて、これが人間の可能的な「本質」である。しかし、その人間が実際に存在するためには(つまり現実的になるためには)、神から「存在」を与えられなければならない。これに対して天使の場合は、神から「存在」を与えられなければならないのは人間と同じだが、「形相」は持っていても「質料」は持っていない。
 で、神だが、神はもっと単純であって、「存在」も自分で持っている。天使や人間は神の被造物であって、神に「存在」させられているのだが、神だけは自分で存在することができる。つまり、神の本質は「存在(するということ)」を含んでいるのである。
神は可能態と現実態が同時にある。これを「純粋現実態」と呼んでいる。これは可能性から現実性へと生成することはないのである。神はいつでもどこでもどこまでも存在しっぱなしなのである。
 以上が神自身の存在に関することだが、神は自分で存在するだけではなく世界を創造する。これが神の働きである。この働きは「知性」、「意志」、「能力」という役割分担がある。まず「知性」は創造できる世界(可能的世界)を隈無く考える。その中で、よしこれだ!と決意するのが「意志」で、それを実際に創造するのが「力」である。
 ところでシェリングは、『自由論』の中で、神を「実存」と「根拠」というもので説明する。彼が言うのには、自由は悪いことも自由にできてこそ自由であると言える。だから、(哲学者たちは悪を単なる欠如だと考えてきたが)悪は積極的で実在的なものでなければならない。そのためには、悪の根源は神の中になければならない。その悪の可能性の根源が神の「根拠」である。この「根拠」から被造物が生まれ、その頂点である人間に至って自由に悪をなす能力を得る。この「根拠」は神の中で神そのものではないのだが、神自身が存在するために持っている根拠である。
 とすると、シェリングが言う神の「根拠」は、被造物の創造に関わる原理であると同時に、神自身の根拠でもある。このことは、トマスらの考えからすれば、神の存在と神の働き(世界の創造)とをごっちゃにしてしまったものだと言える。つまり、シェリングの言う神の中の実存と根拠の区別は、トマスの言う神の存在と本質、知性と意志を両方含んでいるのである。
 トマスのように、神の存在と神の働き(世界の創造)を分離して考える考え方でいけば、世界の創造は神自身の存在には直接的に影響しない。神の存在は予め確保され、揺るぎないものとして確立された上で、神の働きが登場するのである。この場合には世界の創造は神の恣意(勝手気まま)である。ところが、シェリングの場合は、神が存在するとなればその根拠は同時に創造の原理でもあるのだから、創造は神の遊びではすまない。それは神自身に関わることなのである。つまり、シェリングの神は世界を創造し、その中に生まれる悪を克服し、それによって世界を秩序あるものとして回復することによってこそ、自分もきちんとした神そのもの(人格神)となる。つまり、これがシェリングの「生成する神」である。


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