プラトン × トマス・モア

ユートピアと性1


 モアとプラトンは西洋ユートピア思想の二大巨頭である。しかし、勿論の事ながら、顕著な違いが幾つもある。
 例えば、当時のイギリスの資本主義化に対して、モアは、なるほど私有財産は否定しているものの、むしろ中世的な家族主義を強調しており、この点ではプラトン式共産主義の方がラディカルである。そこでは家族、夫婦も否定され、女性、子供は共有されるのである。
 ところで、トマス・モアはイタズラ好きであった。後に「思想」、「学問」の用語として定着する「ユートピア」という言葉にしろ、周知のように、「ウ+トポス」というギリシャ語からの造語であり、「どこにもない理想の国」という意味であるよりは、モアの意図としては単なる駄洒落のつもりだったのである。そもそも、」非」とか「無」とか「不」とかといった否定語は、ヨーロッパ言語の中では言葉遊びの恰好の素材だった。ホメロスの「オデッセイア」に現れる巨人は「ウーティス」と名乗っており、彼がオデッセウス」に目を潰され仲間に助けを求める時にも、仲間の呼びかけに答えて「ウーティス(誰でもない)」と答えて呆れられる。あるいは、ラテン訳「聖書」に登場する否定代名詞「ネモ」を固有名詞と解釈し、「誰も神を見なかった」を「ネモは神を見た」などと反転させた僧侶ラドルフの例もある(因みに、「海底二万マイル」、ノーチラス号の船長の名前がモネであった)。「ユートピア」の否定語も、こうした駄洒落の産物であり、それが同時に価値転換という点でも生きているのだと言える。
 こうしたモアであるから、「ユートピア」には、単純な好奇心に訴える点が幾つもある。例えば、現実の社会で崇拝されている貴金属、特に金が蔑まれ、便器に用いられていたりするといった具合である。これは、日本語では「金」と「金隠し」という語呂の好さもあって、井上ひさしのユートピア小説「吉里吉里人」でもそもまま使われている。ただし、「吉里吉里人」では金が吉里吉里国の一つの支えとなっている点で、モアの発想とは根本的に違っている。これは、吉里吉里国が現実と切り離されたユートピアではなく、現実の国際社会の中に現れたものとして描かれているからである。他の諸国家に対して経済的な自立性を獲得させるために、井上ひさしは「東北の金」を持ち出す。こうして、吉里吉里の紙幣は兌換紙幣であり、その国では金本位制が敷かれているのである。当然、日本も含めた諸外国では、吉里吉里の通貨「イエン」への人気が高まる。諸外国は、通貨危機を阻止するために吉里吉里の金を狙うことになる。それを隠すために用いられるのが、文字通りの金隠しなのである。
 これに対して、島国である「ユートピア」国は、その国民が意図的に大陸から切り離して自ら孤立したという設定になっている。初期の版本では、「ユートピア語」による四行詩が付されており、それにも「ウトプス王は島ならぬ大地を切りて島を生みたまいたり」とある。これは、明らかに現実の諸国家からユートピアを切り離すモアの理念が操作として現れたものに他ならない。これによってユートピアはまさしく「どこでもない場所」となったのである。
 また、「吉里吉里人」は基本的に古典的な反体制思想が素朴に生きているために、性の解放も目指されている。売春制度も勿論認めらるどころか公営である。ただし、売春婦は「もう、好きで好きでたまらない」という好き者が志願していたり、より安価な売春宿では、客である男性が客である女性に選ばれて買われたりする。男性が風呂に入っているところを、女性の方が覗いて品定めするのである。
 一方、これと好一対になる場面がモアにもある。プロポーズの際には、男女が裸になって見せ合うのである。これは、「馬を買う場合でさえ鞍も馬具も外して詳しく見るのに」、人間が互いに一生の相手を選ぶのに十分に相手のことを見られないというのは不合理だ、という理由からである。
 しかし、これは「吉里吉里人」におけるような、性の解放といった目的によるものでないことは明らかである。また、モア流のお遊びでもない。エロティックな場面であるどころか、むしろそれは、優生的な統制を含む、性に対する国家的なコントロールの現れなのである。その意味では、不具な子供は国家にとって不必要だとされ捨てられることになっている、プラトンの国家の発想と大した径庭はない(→モア対ディドロ)。


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