老子 × F.ベーコン

技術とユートピア


 老子のいわゆる少国寡民の理想は、中国においてユートピア思想が明確な形をとった最初のものであると言える。これに対してベーコンのユートピア物語「ニュー・アトランティス」は、既に西洋における数々のユートピア思想ないし文学の伝統を背負ったものである。そのタイトルに用いられている「アトランティス」とは、言うまでもなくプラトンの「クリティアス」及び「ティマイオス」に描かれた理想の国家の名であり、発想としては同じくプラトンの「国家」によっており、また、ベーコンの時代、彼の国で直接先行するものとしてはトマス・モアの「ユートピア」があった。
 しかし、それら先行する諸ユートピアとベーコンのニュー・アトランティスとが明確な違いを見せるのは、国家組織に対する態度においてである。プラトンにせよ、モアにせよ、彼らのユートピア物語の発想の根底にあったのは、現実の社会への批判であり、その政治的及び社会的、そして経済的な変革への意志である。しかし、ベーコンの作品にはこの方面についてはほとんど触れられない。ベーコン自身が政府内部の人間であったために、具体的な政治制度への言及を避けたものとも考えられるが、その点では同様の立場にあったモアでは、明確な社会批判が見られることを思えば、必ずしも正鵠を得ていない(ベーコンが怯懦であったとするのなら別だが。そして、実際モアは国王の統治権の容認問題で刑死することになるのだが)。
 こうした、制度的なものの無視は、西洋のユートピア思想にあっては希有のものである。しかし、それが中国にあって当然のように主張されたのが老子の理想国家である。
 老子とともに中国思想の二大思想となった孔子の教えがより現実的であり、具体的な政治についての言及が多いのに対して、老子そして荘子の流れにあっては、むしろエピクロス的な「隠れて生きよ」が基調であった。中でも、荘子は、全く政治について語るところが少ない。荘子に比べれば政治哲学について語ることの多い老子は、しかし、孔子のような積極的な発言ではなく、むしろ、政治そのものの否定に向かう政治哲学であった。
 したがって、ベーコンの場合には政治制度への言及は欠如しているのだが、老子の場合にはむしろ政治の否定そのものが積極的な主張となっているのであって、その意義は全く異なる。
 しかし、それ以上に大きいのは、老子が政治を否定しているのは、政治=人為であるからであったということである。
 これに対して、ベーコンが政治に言及しなかったのは、むしろ、彼の問題が、科学及び技術の思想にあったからである。つまり、彼のユートピアは、政治的な理想の国なのではなく、技術的な理想の体現者なのである。近代技術哲学の先駆者であったベーコンの面目躍如たるところである。彼が描いたニュー・アトランティスのサロモン学院は、後に、英国王立協会として具体化することになり、またフランス百科全書派に影響を与えることになる。
 しかし、老子の場合、技術はまさに人為そのものであり、政治制度そのものと同様に否定されねばならない。老子の語るところによれば、その国は日常の道具も、兵器も持っていないのではない。それらは全て備わっている。しかし、それにもかかわらず用いられないのである。用いる必要はないのである。
 ベーコンの技術的ユートピアの思想は、哲学思想的な影響の面ではともかく、現実にはプラトンやモア以上に実現したと言える。この方向を最も楽天的に未来へと投影したのがウェルズであったが、しかし、その反動もまた当然のように起こる。技術的な進歩の極限がディストピアに至る物語(サミュエル・バトラー「エレフォン」、ハクスリ「素晴らしき新世界」)が、管理社会としてのディストピア物語(オーウェン「1984」、ザミャーチン「われら」)とともに、やがてユートピア物語の主流となるのである。


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